マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

65 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」

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出典:Pixabay

 

オーラの美しさ

オーラが見え始めたのは、大学時代だった。

わたしがいうオーラとは、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学ニッポン・ロッジ、竜王文庫、1995・改版)の「用語解説」にある、「人間、動物、その他の体から発散される精妙で目に見えないエッセンスまたは流体」*1を意味する。

人間が不死の部分と死すべき部分からできているということを知らなければ、オーラが何であるのかを理解することはできない。このことの詳細――人間が七つの構成要素からなるということを、わたしはH・P・ブラヴァツキーの神智学の論文を通して教わった。

すなわち、人間が不死の三つ組みと死すべき四つ組からなることを。七つの構成要素のそれぞれについて学ぶことはわたしには歓びだったが、一般の方々はどうであろうか。

わたしにとって、オーラの美しさに匹敵するものはこの世になく、オーラの美しさをいくらかでも連想させるものといえばオーロラくらいなので、ときどきしかオーラが見えないのはつまらないことに思っていた。

オーラに関する補足がある。エッセー 117西方浄土」という表現に関する私的発見。オーラに関する補足」を参照されたい。: エッセー 65「神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』」でわたしは、オーラの光を連想させるものはこの世ではオーロラしかないと書いたが、純白の雲を浸して柔らかに迸る神々しい光もまたオーラを連想させるものであることを補足しておかねばならない。

最近までずっとそう思っていたので、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えた 20 年も前のことを毎日のように回想し、あのように美しい光にいつも浴していられればどんなに幸福なことだろうと思っていた。

しかし最近になって、オーラはたまに見えるくらいが丁度よいと思えるようになった。

尤も、強く意識し目を懲らせば、オーラというものは低い層のものなら容易く見ることができる。

物体の輪郭――例えば開いた手の輪郭に目を懲らしていると、指の輪郭を強調する、ぼんやりとした弱い光が、次いで夕日の残照のように射して見える色彩やきらめきなどが見えてくる。さらに目を懲らしていると、光はいよいよ豊富に見え出す。

だが、そんな風に意図的にオーラを見ようとする試みは疲労を誘うし、その水準のオーラを見ても、つまらないのである。自然に任せているのに、オーラが断片的に見えることはちょくちょくあるが、そのオーラがありありと見えることはわたしの場合はまれなのだ。

ありありと見えるオーラーーオーリックエッグと呼ばれるオーラの卵そのものは、観察される人の高級我が自ら開示してくれる場合にのみ、その許された範囲内において、観察可能なのではないかとわたしは考えている。

創作中は自身のハートから放射される白い光に自ら心地よく浴していることが普通の状態で、創作が生き甲斐となっているのもそれが理由なのかもしれない。

生者のオーラに関していえば、それが見えるとき、肉体から放射される光のように見えていて、肉体はその光が作り出す影のように見える。観察する側の感受性が高まれば高まるほど、その影は意識されなくなっていき、遂には光だけが意識されるようになる。

死者についていえば、死者を生きていたときのような肉体としての姿で見たことはまだない。死者が訪れ、近くに死者がいたときに、輪郭をなぞる点描のようなものとして見えたことがあった以外は、ほとんど何も見えなかった。いわゆる幽霊が見えたことは一度もないのだ。

それなのに、存在は感じられた。そして、たまたま死者の訪問時に死者のオーラが見えたこともあったが、そのとき、おそらくわたしは生者のオーラを見るときと同じように死者のオーラを見ていたのだと思われ、死者の肉体が存在しないせいか、光だけが見えたのであった。

たぶん、わたしの感受性がこの方向へ日常的に高まれば、物体は圧倒的な光の中に縮んだ、おぼろな影のようにしか見えなくなるだろう。オーラは人間にも動物にも植物にも物にすらあるので、留まっている光や行き交っている光のみ意識するようになるに違いない。世界は光の遊技場のように映ずるだろう。

そのとき、わたしはこの世にいながら、もうあの世の視点でしかこの世を見ることができなくなっているわけで、それは地上的には盲目に等しく、この世で生きて行くには不便極まりないに違いない。

以下の断章は、神智学徒だった高齢の女性のオーラを描写したものだ。

頭を、いくらか暗い趣のあるブルーが円形に包み込んでいた。その色合いはわたしには意外で、先生の苦悩ないしは欠点を連想させた。全身から、美麗な白色の光が力強く楕円形に放射されていて、その白い楕円の周りをなぞるように、金色のリボンが、まるで舞踏のステップを踏むように軽やかにとり巻いていた。金色の優美さ、シックさ、朗らかさ。あのような美しい白色も、生き生きとした金色も、肉眼で見える世界には決してない。

そのときわたしはあの世の視点で他者のオーラを見ていたわけで、そのときのオーラは物質よりも遙かに存在感が勝っており、こういういい方は奇妙だが、光の方が物質よりも物質的に思えるほど重厚感があった。反面、女性の肉体は存在感のない影だった。

圧倒的な白色を、まるで保護するように取り巻いていた金色のリボンは何かの役割を帯びた組織なのだろうが、その組織の性質が作り出す形状は装飾的といってもよいぐらいだった。

ここで、わたしはフィレンツェの画僧フラ・アンジェリコの描く、あまりにも物質的な形状の天使の翼や後光を連想するのである。

フラ・アンジェリコの描く、あまりに物質的な天使の翼や後光の謎

15世紀前半のフィレンツェを代表する、画家フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico)。アンジェリコは「天使のような」という意味である。

佐々木英也監修『NHK フィレンツェルネサンス 3  百花繚乱の画家たち』(日本放送出版協会、1991)によると、フラ・アンジェリコは1400年頃、フィレンツェ北方の丘陵地帯ムジェッロのヴィッキオ付近で、農民の子として生まれ、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院で1455年2月18日、亡くなった。

フラ・アンジェリコの三つの名前について、前掲書(第 1 章の本文・作品解説、森田義之)より引用する。

俗名をグイド・ディ・ピエトロ、僧籍名をフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレ・そして死後まもなく敬意を込めてフラ・アンジェリコ、あるいはベアート・アンジェコの愛称で呼ばれた。「フラ」は「フラーテ(修道僧)」の略称、「ベアート」は「神に祝福された者」という意味で、彼の場合「福者」を意味する教会の正式の位階名ではない(ちなみに「アンジェリコ」の呼称が最初に登場するのは1469年のことである)。*2

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我に触れるな(制作年:1402 - 1455),フラ・アンジェリコ(1395頃 - 1455)
出典:Wikimedia Commons

「受胎告知」や この「我に触れるな」が特に有名である。しかし、ここでは後光に注目してみたい。

どんな形状のものであるかをざっと示すためだけに、画集から部分的に撮らせていただいた。

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「聖母戴冠」の一部。

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最後の審判」の一部。「聖母戴冠」の天使たち。「最後の審判」の絵の中で、手をつないでいる天使たちと聖者たち。
後光や天使の翼の装飾的なことといったら、笑止千万なほどだ。天使を前から見ても後ろから見ても、後光が後ろに張り付いている可笑しさ。頭を載せる黄金の皿のようだ。金色のシャンプーハットをつけているようにも見える。

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受胎告知(制作年:1450年頃),フラ・アンジェリコ(1395頃 - 1455)
出典:Wikimedia Commons

この「受胎告知」では、後光が頭に載った板としか見えない。

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ヌルシアのベネディクトゥス(制作年:1437-1446年頃),フラ・アンジェリコ(1395頃 - 1455)
出典:Wikimedia Commons

聖ベネディクトの頭部を飾っているのは、どう見ても、金箔があちこち剥げてしまった円形の板である。

この謎は、前掲書『NHK フィレンツェルネサンス 3  百花繚乱の画家たち』の中の森田義之「天使の翼」というエッセーを読むと、解ける。以下に引用させていただく。

フラ・アンジェリコの美しい天使たちのイメージ・ソースはどこにあったのだろうか。ひとつは、イタリアの現実の子供たちの文字通り天使的な美しさである。……(略)……もうひとつは、当時の宗教劇の華麗なコスチュームである。……(略)……フラ・アンジェリコの天使たち――それは現実のフィレンツェの子供たちと、宗教劇の舞台的華麗さと、芸術的想像力が幸福に結びあって生み出された、永遠の美のイメージなのである。

後光の不自然さは、宗教劇における装いが描写されたためだということがわかる。

ただ、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えたとき、体の周囲に卵形に拡がるオーラを縁取る金色のリボンが高級な工芸品のようにすら見えたことを思い出せば、わたしの視点が完全にあの世的な視点となったら、一種の逆転現象が起きて、光の世界こそ、物質的な様相を呈するかもしれない――などと思ったりもする。

多くの宗教画家は天上的光を地上世界に投げかけるが、フラ・アンジェリコの工芸的な徹底ぶりは、彼が完全に天上の側に入り込んでしまっていることを意味しているのかもしれない。

草花の描き方なども印象的で、存在感が際立っている。幻想性を帯びて見えるほどだ。装飾写本画家からスタートしたフラ・アンジェリコならではの描き方といえるのかもしれない。

ところで、図書館からアントニオ・タブッキの本を 2 冊、『供述によるとペレイラは……』(須賀敦子訳、白水社、1993)と『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(古賀弘人訳、 青土社、1996)を借りたのだが、ずいぶん前のこととはいえ、『インド夜想曲』を読んだことがありながら、タブッキが神智学と関係があるということを忘れてしまっていた。

アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』について

アントニオ・タブッキ(Antonio Tabucchi,1943 - 2012)はピサで生まれたイタリアの作家、学者、翻訳家である。ポルトガルの国民的作家フェルナンド・ペソア(Fernando António Nogueira de Seabra Pessoa,1888年 - 1935)の研究者としても知られている。

タブッキと神智学協会の関係については何も知らないのだが、例えば「以下の文章は偽りである。以上の文章は真である。」という作品で「マドラスの神智学協会でお会いした日から三年が過ぎました」などと出てくるところからも、作風からも、彼が神智学協会と何の接触もなかったと考えるほうが不自然だろう。

『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』の表題作で、タブッキはベアト・アンジェリコ、すなわちフラ・アンジェリコを登場させている。

ここでの主題は、天使のような――と形容されるフラ・アンジェリコがどのような霊感をどのように受けて天使を描いたかということで、その結論が、サン・マルコ修道院の野菜畑に墜ちてきた三羽の翼あるものということになるのだろう。

この作品は自然美とフラ・アンジェリコの純朴さを描いた逸品であろうが、どうだろう、キリスト教的主題として読むと、ひどく違和感を覚えるのはわたしだけだろうか?

少なくとも、キリスト教的とはいえないのではあるまいか。

ここに描かれたフラ・アンジェリコの世界は異教的であるに留まらず、解釈次第では冒涜的とすら感じさせる甚だ挑戦的な側面もあるということになるのかもしれない。

ここで、わたしは先述した人間の七つの構成要素について改めて紹介しておかないと、話が進まなくなってしまった。H・P・ブラブゥツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(竜王文庫、1995)の用語解説より、その七本質を紹介しておきたい。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ*3

アストラル体サンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。エーテル複体、幽体、ドッペルゲンガーなどといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれている。

神智学では、真の霊感は完全に清められた心を通して高級自我からやってくるのである。

画僧フラ・アンジェリコが受けた宗教的、芸術的霊感にせよ、「受胎告知」という形式をとったマリアが受けた霊感にせよ、それが本当の意味の霊感であれば、同じ過程をとるはずである。(「続きを読む」に転載した拙基幹ブログ「マダムNの覚書」の2009年12月19日付記事「Notes:不思議な接着剤 #34/ペテロとパウロについての私的疑問/『マリヤによる福音書』についての私的考察#1」を参照されたい。)

また、神智学徒は妖精好きで知られることがあるが、それは神智学徒には万物が内に秘めている生命は同じ根源から来たすばらしいものだという認識があるためで、動物も植物も鉱物も、そして神智学徒には知られているエレメンタル(地・水・火・風という四つの自然界または四大元素の中で進化したもの)のうちのいわゆる妖精のような存在も皆、兄弟姉妹と感じられるからなのだ。

タブッキの『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』に出てくる三羽の翼あるものはどう読んでも天使ではなく、妖精で、画僧フラ・アンジェリコはその三羽の妖精たちから着想を得て絵画制作したという、キリスト教小説からはほど遠いファンタジーとなっている。

三羽の妖精たちはいずれも弱く、可憐で、フラ・アンジェリコの思いを映し出したりもする。妖精の一羽がネリーナという画僧の思い出にある女の子の顔立ちをしているのは、そのためだ。

以上のことから、この小説はキリスト教的世界観によってではなく、神智学的(神秘主義的)世界観によって描かれているようにわたしには思われる。

 

マダムNの覚書、2014年1月21日 (火) 20:07

 

*1:ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説「オーラ(Aura,希/羅)」p.22

*2:森田,1991,p.11

*3:ブラヴァツキー,田中&クラーク訳、1995,用語解説「本質(Principle)」pp.23-24

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