マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

45 祐徳稲荷神社参詣記 (1)2012~2014年

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出典:Pixabay

花山院萬子媛は、佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。

祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母として1625年に生まれ、2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

1662年、37歳で佐賀藩支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。1705年閏4月10日、古枝村祐徳院に於いて80歳で没。諡、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。

ざっと祐徳稲荷神社の創建者である萬子媛の生涯を辿った。

このエッセーは、2012年から2014年までの3回にわたる参詣記である。祐徳稲荷神社の石壁社における 3回の神秘主義的な記録といってもいい。

2012年1月12日、佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社に参詣した。幼いころから馴染んできた神社であるが、今住んでいる場所からは県境を二つ越えることになるので日帰りは少々強行軍に感じる。

当時書いた記事をまとめている今はもうそのときに書いたことしか思い出せないが、おそらく家族の厄払いのために行ったのではないだろうか。宇佐神宮によく出かけていたのけれど、厄払いは祐徳稲荷神社でお願いしようということになったのだと思う。

御神楽殿で御祈願していただいた後、階段を上がって石壁社(せきへきしゃ)に参拝したに違いない。

創建者の花山院萬子媛が祀られている石壁社について、神社の公式サイトには次のように書かれている。

祐徳稲荷神社を創建された、鹿島藩主鍋島直朝公夫人萬子媛(御神名萬媛命)をお祀してあります。(……)貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。*1

祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

萬子媛を祀った石壁社で、心の中での単なる独りごとのつもりで、

「萬子媛。わたしはあなた様の生きざまって凄いなあとずっと思ってきました。もうどこかへ生まれ変わっていらっしゃいますか? それとも、霊妙な空間からまだここを見守っていらっしゃいますか? ああ、そういえば、わたしの祖母の家は鍋島家の家臣だったと聴いています」と、実におかしなことを語りかけてしまった。

まさかそれに対するリアクションがあるとは想像もしなかった。石壁社に背を向けて帰りかけたとき、背後から格調高い貴婦人の気配を感じたのだった。
その御方の「えっ?」という強い驚きが率直に伝わってきた。

飾り気のないお社に深窓の麗人がいらっしゃるとは驚きだった。その御方が萬子媛でないとすれば、どなたが考えられようか。萬子媛だとしか思えなかった。
深窓の萬子媛にいきなり話しかける参拝者は珍しいのか、わたしの全てが見透かさせたような名状しがたい間があった後で、苦笑なさる雰囲気が伝わってきた。それが瞬時に細波が寄せるように感じられる微笑へと変わり、社を去りゆくわたしに萬子媛の微笑と太陽の燦然とした光に似たオーラが注がれるのを感じた。それに伴い、冷えてきていた時刻だったにも拘わらず、背中がほんのり温かくなった。

初めての体験に、戸惑いと昂奮で挙動不審になりつつ、石壁社の敷地を出るときにこわごわ振り返ると、石壁社が真昼のような光に満ち、金色に輝いて見えた。

姿が見えたわけではなかったが、石壁社にいらっしゃるらしい萬子媛は品格の高い御方だと感じた。神秘主義的にいえば、高級霊ということになるだろうか。

創建者の責任として、亡くなってからもあの世から見守っていらっしゃるのだろう。否、そうするためにあえて断食入定をなさったのではないだろうか。

鮮明にオーラを見たわけでもなかったが、高雅な紫や銀色のイメージに包まれた。

宇佐八幡宮は現在、鍵がかかっているというか、神霊不在の感じである。跡継ぎ問題で、秘伝を受けたという世襲家の女性と神社庁とのあいだで諍いが起きているらしいから、そのせいなのかもしれない。第二審も世襲家敗訴、上告したとニュースに出ていた。

 

2013年には、立春――4日だった――も過ぎた2月13日に祐徳稲荷神社に参詣した。独身の頃に行ったきりだった「祐徳博物館」へも行った。

娘はお店で美味しそうなお菓子をあれこれ見つけたらしく、お菓子の買い出しに行ったみたいに買い込んでいた。楠田製菓本舗(佐賀県嬉野市塩田町)の「逸口香」はなつかしい味だった。夫もなつかしがっていた。

萬子媛の石壁社で、また不思議なことがあった。

そのお社のある域がまるで暖房でもしたみたいに暖かで、「どこかで焚き火でもしているの? というより、ここいら一帯がエアコンを付けたお部屋みたいに暖かなんだけれど」というと、家族は「えーっ、こんなに寒いのに?」と怪訝な顔をした。

だが、わたしは暖かで、そこから駐車場までの神社の域を歩く間、時折、わたしだけに春風が吹いてきたような状況であった。

温風が吹いてくるたびに、「まるで春みたいな風ねえ! 花が一斉に咲き出しそう」というと、またしても家族が怪訝な顔。普通に寒いというのである。確かに、家族はちょっと青ざめて見える寒そうな顔色と寒さを我慢しているような沈鬱そうな顔つきをしていた。

実は前回、萬子媛に心の中で大声で呼びかけて、高貴な御方の家のドアをガンガン叩くような真似をしたので、今回どうお詣りをすればよいのか、わからなかった。

一年間、見守っていただいていることを感じてきたので、その御礼をそっと心の中でつぶやくつもりだったが、ついあれこれ下品な声で――勿論心の中でだが――申し上げてしまった気がする。

また、このようなことを考えるのは不謹慎だったかもしれないが、神智学を学ぶ神秘主義者としてのわたしは、江戸時代に公家のお媛様として生を享けながら尼僧となって断食入定なさった萬子媛が、わたしのようなひよこの神秘主義者で、稚拙な生きかたをして苦悩まみれになっている人間にどう応じられるのだろう、という好奇心もあった。

春をプレゼントしてくださるなんて、わたしのような人間に……なんという豪華な贈り物だったことか。わたしには普通の暖かさや春風に感じられたのだが、霊的な性質のものだったために、家族には感じとれなかったのかもしれない。

 

2014年は前年よりさらに遅い4月に参詣した。

祐徳稲荷神社は遠いので、時間がかかることはわかっているのだが、午後2時くらいまでに着けるように行ければ、娘の厄祓いをお願いし、萬子媛のお社の前で初の――萬子媛を主人公のモデルとした――歴史小説を書くご報告をし、祐徳博物館をゆっくり見るくらいの時間はとれると思った。

それで、早朝、もう少し家族を寝かせておきたいと思い、わたしはKindle本に新しい洋服(表紙)を作ってやっていた。しばらく熱中してふと顔を挙げると、目の前の空間に金色の短冊状のものが棚引くのが見えた。

これは肉眼には見えないもので、神智学でいう透視力が目覚めてきてからこうした類のものが次第に見えるようになった。いつからその透視力が目覚めてきたかといえば、大学時代から「枕許からのレポート」(エッセー34「枕許からのレポート」)*2を書いた頃にかけてだったように思う。

文通をしてくださった神智学の先生――先生は多くの人々と文通をなさっていた――がお亡くなりにあと、先生はあの世に行かれる前に透明になったお体で挨拶に来てくださったのだが、その後しばらくしてから空間に星のようにきらめく色つきの光の点を見るようになった。

空間はわたしには見えない世界からのメッセージボードのようなもので、それまでにもいろいろと見えることはあったが、ある種の規則性を持ったものが見えるようになったのはそれ以降だった。

それが何なのかはわからないが、先生からの、あるいは見えない世界からの助言ではないかと想像している。

金色の短冊はそれとは異なった。それを目にすると同時に「急いで」と優しくいわれたような気がした。萬子媛のお使いかな、と思った。

それでもまだ時間はあると思い、Kindle本の洋服に熱中していたところ、どうしても済ませておきたい急用ができたため、出るのが大幅に遅れてしまった。

午後1時になろうとしていた。おまけに雨が降り出していた。お祓いの受付は4時だから、休憩時間を入れると間に合わないかもしれないよ、と夫はいう。別の日に変更する、どうする? 

決行することにした。

運転してくれる夫には連休をとって貰っていた。次に行くとなると、今度はいつとれるかわからない。間に合わなかったら、また来なくてはならないが、萬子媛に初の歴史小説を書き始めることをご報告するくらいのことはできるだろう。

お使いをよこしてくださるくらいだもの、萬子媛はわたしの執筆によい反応を示してくださるに違いないと楽観した。その反応とは、前回の寒いときに感じられた暑い感じや春風の贈り物のようなものだろうと想像した。

前述したように、一般参拝者の諸祈願は御神楽殿で行われる。萬子媛をお祀りしてある石壁社は階段を上がった場所にあった。

わたしは御祈願を萬子媛の石壁社でしていただければどんなにいいだろう、と空想したりしていた。御祭神である倉稲魂大神(ウガノミタマノオオカミ)、大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)、猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)といった神様方はわたしには抽象的すぎて、ぴんと来ない。

前回の御祈願は大勢が一緒で、そのせいもあったのか、祝詞も太鼓の音もあまり印象に残らなかった。

到着したときは時間を過ぎていたと思う。受付の窓に男性の顔が見えたので、「まだよろしいでしょうか?」とお尋ねすると、大丈夫ですよ、とおっしゃった。

御祈願をお願いするのはもうわたしたちだけだった。雨が降っていたので、寒かった。

御祈願が始まると、すばらしい祝詞の声と名演奏と絶賛したくなる太鼓の響きに魅了され、自分が音楽会の会場にいるのか神社にいるのかわからなくなったほどだった。神主さんは何人かいらっしゃるのだろう、前のときの人とは違っていた。

そして、その祝詞の最中、背後から前に萬子媛のお社の前で感じたような、まるで南国にでもいるような快い暑さを覚えた。同時に、微笑に包まれているような感じを受けた。

実はその直前に寒さからか喘息の発作が出かかっていたのだが、引っ込んだ。萬子媛が臨在なさっているのだとわたしは思った。

太鼓の音が止み、御祈願が終わったとき、思わず拍手しそうになった。外へ出ながら、娘が「上手だったねえー、神主さんって太鼓もできなきゃならないんだから大変だよね」といった。本当にすばらしかった。

石壁社に行こうとしたとき、中村雨紅作詞・草川信作曲で知られる「夕焼小焼」が流れた。

夕焼 小焼(ゆうやけこやけ)で  日が暮(く)れて
山のお寺の 鐘(かね)がなる
お手々つないで 皆(みな)かえろ 
烏(からす)と 一緒(いっしょ)に 帰りましょう

「烏と一緒に帰りましょう……って、そんな」とわたしは慌てた。

神社に営業時間があるのは当然だが、もしかしたら見えない世界にまでそれがあるのでは――と思ってしまったのだ。

そのせいだと思いたいが、萬子媛のお社の前で初の歴史小説のことをご報告しても、何の反応も得られなかった。雨が降っていて、夕方だし、寒かった。前のときのエアコンを効かせたお部屋に招かれたような現象は起きなかった。

御神楽殿では確かに萬子媛の臨在が感じられたのに、小説に反対ということなのだろうか、とわたしは動揺した。

動揺したまま、次に何をしたらいいのかわからなくなっていると、先のほうに歩いていったらしい娘が、「水鏡があるよ」とわたしを呼んだ。

あとになって神社の公式サイトを見て思ったが、このとき雨が降っていたことはよかった。サイトの写真を見ると、水が写っていないために、水鏡ということがよくわからないのだ。

わたしは反応がなかったことを気にしていて、写真なんか撮ったら罰が当たりそうな気がしていた。しかし、寿蔵と水鏡はぜひ撮りたかった。わたしはカメラの腕がよくない上に、未だに扱い慣れない携帯で撮ると、よくぼやける。

この雨で夕方だから、絶対にそうだろうと予想した。万一ちゃんと写っていたら、それは撮影に許可をいただいたことだと思うことにしようと考えた。

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この御本殿の上のほうに石壁社がある。

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寿蔵は神社の傍らに位置している。写真には圧縮以外に修正を加えていないのだが、石壁社からは晴れた昼間に撮ったみたいに写っている。天気が急によくなったわけではなかった。雨が降っていて、ほの暗かった。

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石碑。

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実際に見ると、岩の窪みは鏡の形に円形で、そこに水が溜まっていると、これこそ水鏡という印象を受ける。写真ではあまりわからないが、澄んだ水がきよらかに溜まっていた。

水鏡について、神社の公式サイトから引用する。

水鏡

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祐徳院様(花山院萬子媛)は古田村(現在の鹿島市古枝)に庵を結び、以後十九年神仏に仕えお暮らしになりました。村人からは大変敬慕されていました。

ある日、一人の村人が畑で獲れた野菜を祐徳院様へ届けた時でした。
「○○さん。実は私は今日あなたがここへ来ることを朝から知っていました。」
村人は驚いて尋ねました。
「なぜそんなことが分かられたのですか。」
祐徳院様はやさしく答えられました。
「私は毎朝あの水鏡を見ています。今朝水鏡の中に野菜を持ってここに来るあなたの姿が見えました。だから分かったのです。」
こうして村人たちは祐徳院様の優れた徳を知り、益々お慕いするようになったとの事です。【地元古老による昔話】

祐徳院様が吉凶を占っておられたとされる水鏡は現在も石壁神社横にあります。*3

 前に来たときは水鏡がここにあるということに気づかなかった。石壁社横にあると書かれているというのに。

楽殿前の広場へ下りたとき、娘が「御神籤を引こうよ」と誘った。わたしは「嫌よ」といった。前に来たときも引かなかった。父と夫が引いて凶が出たことがあり、引きたくなかった。

それでも、娘が珍しいことにしつこく引こうと誘う。

仕方なく、引いてみることにした。もし凶が出れば、それは歴史小説を書くなということだ。筋金入りの僧侶だった萬子媛も水鏡で占いをなさったのだから、未熟なわたしが占いをしても悪いはずがないと思った。

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娘もわたしも大吉だった。大吉ばかり出るようにシステムが変わったのだろうかと思ってしまったが、近くにいた3人組のおばさんたちが引いて、口々に何と出たかいい合っていたのが聴こえ、その中に大吉はなかった。

わたしが受けとったメッセージはこうである。

小説に関することは世俗の出来事、あるいはミューズの領域であって――ミューズは和風にいうと、弁財天? インドではサラスヴァティーだろうか――、萬子媛はタッチなさらないのだと。

高級霊はこのようであることをわたしは神智学を通して学んだはずなのに、砂糖菓子のように甘ったるい庇護を求めていたのかもしれない。それは間違っていた。わたしが自分で考え、自分でミューズの霊感を受け、自分でその仕事を果たしてこそ意味があるのだ。

でなければ、それは芸術ではなく、お筆先になってしまうだろう。さすがは萬子媛、と思った。

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門前商店街のお店に、なつかしいお菓子「すずめの玉子」があった。

清々しい参詣だった。

 

3回の参詣を通して思ったことは、本当に貴重な体験をさせていただいたということである。

何しろ、萬子媛は1625年にお生まれになり、1705年閏4月10日(1705年6月1日)に80歳で入定なさった御方なのである。おそらく、あの世でボランティア集団を形成して300年以上、この世のために尽くしてこられたということなのだ。

なぜそう思うかといえば、祐徳稲荷神社という神域で、萬子媛を感じる以前から、明らかに奉仕しておられると思われる霊的、集団的な存在を感じることがあったからである。その中心人物こそ萬子媛だと、この方の類まれな存在感からわたしは確信したのだった。

いずれにしても、凡人には気が遠くなるような話である。千手観音のような萬子媛だ。

2012年に石壁社で萬子媛に語りかけたときに、「え?」と驚かれたその感じが如何にも高貴な率直な印象で、生きていらっしゃるときには江戸時代の貴婦人だったし(晩年は黄檗宗の僧侶だったわけだが、わたしには貴婦人の印象が強い)、霊界ではもっとすばらしい姿だろうが、わたしには光としてしかわからない。

萬子媛を一度驚かせたが、萬子媛のお考えをこちらで読みとることはできない。

霊感が徐々に開かれてよかった。江戸初期に生まれた400歳近い貴婦人と心を通わせることができたのだから。

だが、こんな無分別なことをいつもしているわけではない。

神社はある意味でお墓であることも多く、わたしは神秘主義者として、そこに存在しているかしていないかわからない霊に向かって不用心に話しかけるようなことは怖ろしくてできない。

萬子媛の場合は生前どんな人物だったかがある程度わかっており、ある種の勘もあって、話しかけても安全だと思ったのだった。でもまさかお返事というか、実際に反応があるとは想像もしなかった。

それが何と300年以上、参拝者のために律儀にご公務なさっているとは。霊的にはすばらしい段階に、おそらくは達しておられながら。いや、だからこそなのだろうが。

萬子媛が生前から村人たちにその徳や神通力を敬慕されていたことを思い出そう。エッセー40ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ②三浦関造の雛たちに危いまなざしを向ける人」で書いたように、死んだからといって、誰もが聖者のようになれるわけではない。生前に聖者であった人のみが死後も聖者としての高級な影響力を発揮しうるのだ。

萬子媛が「水鏡」の村人と会話を交わしたのがいつのことかはわからないが、「村人からは大変敬慕されていました」とあるから、僧侶としての方向性が定まり、落ち着きが備わって、貫禄が出て来たころではないかと想像する。透視力も備わっていた。

元禄11年(1698)に黄檗僧の正装をした萬子媛の肖像画が描かれている。このとき73歳。

謹厳そのもののお顔だが、わたしが神秘主義的に感じとった萬子媛は、さすがは神様として祀られているだけあって、光源となりうる圧倒的なパワーの持ち主であり、おそらくは生前もそうであったように温かな人柄と微に入り細を穿つ濃やかさを持ちながら、一方ではユーモアを好みそうなタイプの御方だと感じた。

そして、生前も、あの世でボランティア集団を組織して300年以上も奉仕活動をなさっている今も、とても率直な御方なのではないだろうか。

そうした率直さ、優しさ、面白さ、楽しさ――などの豊かな情緒が太陽の光のようなオーラを通じて格調高く伝わってくるので、わたしは萬子媛が怖くなく、たちまち大好きになってしまったのだ。

もしわたしが江戸初期に生まれ、萬子媛の禅院で修行生活を送ったとしたら、厳格さをより強く感じることになったのだろうか。

萬子媛を知る人間によって書かれた、萬子媛の唯一の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、佐賀藩支藩である鹿島藩文人大名として知られる義理の息子、鍋島直條によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704)に著述されたと考えられている。

お世話になっている郷土史家・迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる、萬子媛に関する第一級のソース――史料――である。

萬子媛の2人の息子は不幸にも1人(文丸あるいは文麿。鍋島直朝の4男)は10歳で、もう1人(式部、朝清。鍋島直朝の7男)は21歳で夭逝したが、義理の2人の息子、直孝(断橋、鍋島直朝の2男)、直條(鍋島直朝の3男)との関係がどれほど温かな、良好なものであったかは前掲史料からも推し量ることができる。

親戚がうるさくてなかなか出家できなかった……と、僧侶になっていた断橋に萬子媛が打ち明けられたようなことまで書かれていて、つい笑ってしまった。生前から率直な御方だったんだと納得した次第。

人間、死んでもそう変わるものではないというが、本当にそうだという気がする。また、あの世には具体的な実際的な活動を通してこの世のために奉仕している方々がいらっしゃるといわれていることが、萬子媛の存在とあり方で本当にわかった。

江戸時代に生きた御方と霊的なふれあいができたという驚くべき、高級感のある歓びはこの世の何にも勝るものと思われるが、俗人の悲しさで、人生の問題に直面しているときには全てが夢ではなかったかと疑ってしまいたくなる。

2015年が暮れるころ、萬子媛を主人公とした歴史短編小説の試作――第一稿――が仕上がった。この短編を核として作品を膨らませたいと考えている。果たして、オーブンの中でふんわり膨らむシフォンケーキのように上手に膨らませることができるだろうか。

 

マダムNの覚書、2012年3月12日 (月) 20:09,2013年2月17日 (日) 19:33,2014年4月10日 (木) 12:54,2014年9月17日 (水) 20:17 ,2016年2月17日 (水) 18:59

 

*1:祐徳稲荷神社「石壁社・水鏡」<https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php>(2016年2月10日アクセス)

*2:1981年発行の文芸同人誌「VIE」所収の手記。Kindle版も出ている。直塚万季『枕許からのレポート(Collected Essays, Volume 4)』(Kindle版、2013年、ASIN: B00BL86Y28)

*3:祐徳稲荷神社「石壁社・水鏡」 <https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php>(2016年2月10日アクセス)