マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

54 ブラヴァツキー夫人の神智学を誹謗中傷する人々 ⑤バッシングから遂にブラヴァツキー夫人がゲームのキャラに

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レスリー・プライスによって1985年に設立された「Theosophical History(神智学史)」という神智学組織には無所属の、神智学のすべての側面に専念独立した学術雑誌の記事をたまたま閲覧した。
アムステルダム大学の Marco Pasi によって書かれた、ジョスリン・ゴドウィン英訳 Theosophy and Anthroposophy in Italy during the First Half of the Twentieth Century (二十世紀前半のイタリアにおける神智学と人智学)という論文であった。
掲載された学術雑誌の編集方針からして、どちらかというと批判的な傾向があるのではないかと思ったが、閲覧した論文は格調が高く、優れた論文だと思った。
あちこち閲覧しているうちにTheosophical History Vol XVII/4 (October 2014)に吉永進一という名を発見して驚いた。エッセー40*1で出した名を連想したからだった。リンダ・ハリスという人が2014年国際神智学史会議での吉永氏のプレゼンテーションを紹介しているらしい。
Marco Pasi 氏の学術的な芳香漂う論文とゴシップみたいな論文とは対照的で、月とスッポン……いやいや、わたしの勘違いで同姓同名に違いない、とすら思う。
そのあと、togetter*2の「神智学協会が日本に与えた影響」に出くわした。

神智学協会が日本に与えた影響
togetter.com/li/268593

そこには笠井潔という、これも拙ブログ「マダムNの覚書」の2009年11月23日付過去記事*3で出した覚えのある名を発見した。次のような記事である。

昨夜、カタリ派信仰を持つ女性がヒロインで、そのモデルはかの実存主義系フランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユというミステリー、笠井潔著『サマー・アポカリプス』(創元推理文庫、1996)を読んだ……とはいえないお粗末な読みかたで、20分くらいで拾い読みしただけだが、全体のあらましは掴めたと思う。
かのシモーヌ・ヴェイユにはトンデモ役が二重に振られていて、ミステリーとはいえ、驚いてしまった! ヴェイユは美形だから、人気があるようだが、こんな使われかたをしていたとは。カタリ派に触れたヴェイユの論文まで引用されていた。作品のムード、事件の追跡の仕方はダ・ヴィンチ・コードなどの系統だろうが、歴史の謎解きを絡める主要な線では残念ながら不成功で、どちらかというと単なる人殺しに終わっていた。ここから、ヴェイユの思想、異端カタリ派、グ ノーシス、原始キリスト教などに入れば、一興かもしれないが……。

以下はウィキペディアからの引用である。注意して読んでいただきたい箇所を赤字にした。純文学崩壊の元凶はこの男だったのかと思った。そういえば当時、文芸雑誌でそんな記事を読んだ気がする。

笠井潔(1948 -)
小説家、推理作家、SF作家、文芸評論家。
小説家としての仕事と平行して思想家・哲学者としての仕事も旺盛に展開する。 『テロルの現象学』でマルクス主義と完全に決別し、以後「マルクスに依拠しない左翼思想」を模索しつづけ、思想史には「マルクス葬送派」(小阪修平長崎浩)と呼ばれる思潮に属する。この思潮を発展させ、1995年の『国家民営化論』では、反資本主義ではなく、逆に資本主義を徹底化させて国家を解体させるというアナルコ・キャピタリズムの思想を明確に打ち出した。 また、1990年代から「純文学の終焉」を唱え、これに反対する立場の笙野頼子からの反発を招いた。*4

何年も執拗な純文学バッシングとエンター系作家が持ち上げられる現象が続いた。デビューできたはずの純文学作家がどれだけ闇に葬られたことだろうか。

日本では純文学作家が世に出られない仕組みが児童文学含めて完全に出来上がってしまった。かつての純文学系商業誌の新人賞は流通業界における新商品を生み出すようなアイディア戦――ひねりを入れた軽薄なものであればあるほど絶賛される――となり(「マダムNの覚書」2011年8月8日付記事*5を参照。ライン以下に転載)、芥川賞受賞作品からは求道性や人間性の追究が完全に失われ、純文学系ともエンター系ともいえない――どちらのよさも見い出せない――、概ね日本語に欠陥のある奇怪な代物と成り果てた。

そしてtogetterにはYOSHINAGA Shin'ichi という名も発見したが、ウィキペディア吉永進一」の外部リンクの項目に「YOSHINAGA Shin'ichi - 本人のサイト」とあったので、吉永進一氏と同一人物と思われる。

明治期に神智学がどう影響したかがやり取りされていた。博識に驚かされるとともに、研究対象をまるでゲームのアイテムのように扱っている印象を受け、愕然とした。

「神智学の好きなクマ」という方の書き込みに唯一ホッとさせられた。引用させていただく。

神智学の好きなクマ  2014-08-26 08:13:52

神智学を偏見なく見るには、批評家の書いたものではなく、神智学の本そのものを見たほうが良いです。決しておかしいことは言っていないことがわかるでしょう。その目指すところも、決してオカルトめいた変な方向ではないんですね。
人間は物質界だけで生きるものではないと、精妙な世界のことを教えたのが神智学でした。唯物主義のコチコチに凝り固まった人々に現象を見せた時期もあったのですが、それは物質以外の世界もある、と示す目的があったからですね。当時の西洋において。

そもそも、神智学がどんなものであるかを知らずに、神智学に関係した研究ができるのだろうか。三浦関造について論じた吉永氏の文章を閲覧したとき、この人は神秘主義というものがどんなものであるのかまるで知らないとしか思えなかった。

吉永進一「近代日本における神智学思想の歴史」
『宗教研究』84 巻2 輯(2010年)
ci.nii.ac.jp/naid/110007701175  (2015/12/27 アクセス)

神智学は神秘主義思想なので、内的体験を通さなければ理解できない。オーラが見えなければ、オーラに関するブラヴァツキー夫人の解説は仮説として置いておくほかはない。

資料を沢山集めて博識ではあるのだろうが、理解を伴っていない。だから、吉永氏の描く三浦関造にしても、ブラヴァツキー夫人にしても、その人らしさが全く形作られていない。

昔の話になるが、わたしは三浦先生の講演テープを聴いたことがあった。その闊達な溌剌とした滋味のあるお声は、わたしのヴィジョンに現れた先生の印象に符合するものであった。吉永氏の描く三浦関造は、吉永氏でしかない。

いずれにせよ、吉永氏はせめて博識でないとおかしい。ウィキペディアの外部リンクに「吉永進一 - KAKEN 科学研究費助成事業データベース」があり、吉永氏が一員となっている――代表となっている場合もある――種目の研究グループに配分されている助成金の額を見ると、貧乏物書きの――プロですらない――わたしはのけぞってしまうからである。

文系への助成金としてはそれが普通なのかもしれないし、多いのかむしろ少ないのか、どうであろうか。いずれにせよ、当然ながら出来上がった論文との釣り合いから妥当な配分かどうかがわかるだろう。

オープンアクセスできる論文には日数を費やしても当たってみたいと考えている。どういう論文に助成金がどのように配分されているのか、国民の一人として興味があるし、日本国の将来の学術のために知る権利と義務がある。

これまでの内容と無関係とは思えない話であるが、togetter に広告が掲載されていて、ブラヴァツキー夫人がゲームのキャラに登場したことを知り……(絶句)。

FGO参戦によってにわかに注目を集める(?)ブラヴァツキー夫人
togetter.com/li/957750

神智学協会が魔術協会の下部組織……霊媒アイドルブラヴァツキーちゃん……アカシックレコードオリコン入り……などというおしゃべりを閲覧。

ゲームがきっかけで神智学の本を読んでみようという気になっていただけたら、神智学協会にとってはいい宣伝になるのかもしれないが、これまでにも神秘主義はゲームで散々玩具にされただけのように思える。

海外の神智学関係者の方々に申し訳なく、日本人として情けない。だが、面白ければ何をしてもいい、否こんなことが面白いと感じる国民性は本来の日本人のものとも思えない。

低俗・低レベルな文系研究者にも不適切な助成がなされてきたことと、心の拠り所と品性を見事なまでに喪失した日本人の今日のあり様とが無関係なはずがない。さらにいえば、「資本主義を徹底化させて国家を解体させるというアナルコ・キャピタリズムの思想を明確に打ち出した」ような危険思想の持主がぬくぬくと儲け、泳ぎ回れるような甘い日本でいいのだろうか。

明治期における神智学の影響については明治政府の廃仏毀釈という文化破壊とあわせて、わたしもいずれ研究してみたいと考えている。時間はかかっても、神智学協会ニッポンロッジ、竜王会の機関誌に投稿できるくらいのレベルには持っていきたい。

いやできるなら、海外の神智学関係者、前掲の海外の雑誌「Theosophical History」の編集者にも日本の特殊な事情を知っていただけるレベルのものに完成させたい。そのレベルのものに仕上がったらの話だが、幸い、神智学協会ニッポンロッジ、竜王会には英語の堪能な方々がおられるので、英訳をお願いすることも可能ではないかと思う。

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おすすめしたい旬の本。余命プロジェクトチームの本は3冊出ているが、以下の本から入ると理解しやすい。

余命三年時事日記ハンドブック : 余命プロジェクトチーム : 本 : Amazon

 Kindle版拙著。当記事と合わせて読んでいただければと思う。

村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)

気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays, Volume 2)

 

 

マダムNの覚書、2016年6月 5日 (日) 20:33

 

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マダムNの覚書elder.tea-nifty.com2011年8月 8日 (月)
文藝春秋文學界 平成二十三年八月号」 ‐ 「新人小説月評」に対する私的不信感
http://elder.tea-nifty.com/blog/2011/08/post-723d.html

 

近藤くんの『銀杏神社』を読むために、文藝春秋文學界 平成二十三年八月号」を購入。

まだ小説は近藤勲公『銀杏神社』を読み、その前に掲載されていた三輪太郎『海の碧さに』を失礼ながらざっと読み、コラムの雪舟えま『種の暮らし』を読んだくらいだが、「文學界」を読むときはいつもそうするように、まず陣野俊史/大澤聡「新人小説月評」を読んだ。

この『新人小説月評』に掲載される評論が掲載や新人賞の基準となり、作家志望者の《傾向と対策》となって、作家をつくっていくからだ。その目で読んで、わたしは久しくこのコーナーに不信感を抱いている。

陣野俊史のタイトル……誠実な態度

賞応募の傾向と対策のため、チェックすべき箇所を抜書きしてみた。

  • 小説家は小説を書いて、原発に対峙する。古川は、小説と小説ではないものとの間で苦悶する。小説は揺らいでいる。
  • 翻訳と言語の問題を全面に出しながら、後半の詩的なイメージが横溢する文章
  • 時間軸を自由に移動する伊坂の作風
  • 全篇に流れるホラーテイストは◎。妹の「肉」の描写がよい。
  • ……というと割とよくある設定なのだが、最後の数枚で大転換。ここが気持ちよい。
  • 主人公の無気力キャラを大事にして欲しいと願いつつ読んだ
  • それぞれの家庭まできちんと描き込んであって、好感を覚えたが、『きことわ』以後、このタイプはやや書きにくくなったかも。
  • トリッキーな設定
  • 才気を感じた。このテイストの作品をあと十篇くらい並べられれば、かなり面白い。

新人賞とは、流通業界における新商品を生み出すようなアイディア戦であることがわかる。それも、ひねりを入れた軽薄なものであればあるほどよさそうだ。本当にそれが文学作品に対して一般が求めるものなのだろうか。

この文芸評論家の頭に浮かぶ詩的、才気というイメージは、おそらくわたしの頭に浮かぶそれらとは全く異質のものだろうという絶望感を覚える。小説で原発に対峙する? あたかも小説家は小説の素材に対立し、敵対しなければならないように読めるが、わたしには意味不明だ。

わたしにはとても、この評論家が求めるような作品は書けそうにもない。書きたくもない。この月評からは間違っても、文豪といわれる小説家の作品のようなものは浮かんでこない。

大澤聡のタイトル……「新人」の条件、二重の。

このタイトルからして、わたしには早くも意味不明だ。内容となると、カラーン(あ、思わず、匙投げちゃった)。それでも、自身を叱咤し、賞応募の傾向と対策のため、チェックすべき箇所を抜書きしてみた。

  • 本欄「新人」の条件は、「芥川賞候補となる可能性を残す」といったところか。実際そうらしい。
  • 以上二作、ジャンルへの無防備な甘えが随所に看取された。
  • どうということもない。だが、どうということもないことを読ませてしまう。それが丹下の一貫した姿勢。語りの位地と時制を中盤まで宙に吊る構造も機能している。
  • 職業設定からラスト(空港!)への動線まで、ドラマ的文法の密輸入を思わす。定型だが、それゆえエンタメとして高水準で成立。
  • 貧乏設定、アフォリズム、並行世界[パラレルワールド]etc。デビュー以来のツールを全て搭載。もはや熟練の境地。
  • 動力に使用言語の非対称性を適用。その時点でご都合主義に嵌るのは不可避。
  • 凡庸な解読を拒む。書くという営為をめぐる自己言及。怪作。
  • 複層的な時空間の堆積=物語たる同作に、さらなる時間(日付)と空間(地図)を挿し込んでゆく。ジャンルの分節など退けてしまう筆圧。
  • 円城・古川と同様、非線的で錯時的な章構成。再縫合は難しくない。
  • 「純文/エンタメ」の対立枠組はとうに瓦解した。残るは各誌の伝統と自画像だけ。「純文学」は異質なアイテムや想像力を周回遅れで誘致し延命してきた。隣接分野からのリクルートは定石。大正期から反復された光景だ。そのつど、新人に期待されるのは、内部のプログラムを秘かに書換えてしまう剰余である。その点、今月は模倣の限界例が多く観測された。出来にかかわらず。もっと逸脱した参入動機を。既存の磁場に回収されぬ圧倒的な不可解さを!

「純文/エンタメ」の対立枠組とは何だろう? 音楽に置き換えてみれば、この言葉の不可解さがはっきりする。クラシック音楽とポピュラー音楽の対立枠組というと、何のことか、さっぱりわからない。ジャンルが違うだけのことを、一体何をけしかけているのだろうか?

最後の言葉などは、シュプレヒコールのようにも気が触れた人のわめきのようにも感じられる。

わたしには、まともな文学作品をまともに読む能力に欠けた人間が、まともでない作品を持ってこさせては、このコーナーで自己満足的な嗜好の世界に浸っているとしか思えない。ここには指標らしきものは存在せず、全ては彼の好みに合うか合わないかで決まるようだ。

当世風の評論家たちは、作家の卵を何処へ連れて行こうとしているのだろう? ハーメルンの笛吹き男をさえ連想してしまう。

当世風評論家たちの批評を読んだあとで、近藤くんの『銀杏神社』の頁を開いた。抒情的な銀杏の描写にホッとさせられる。安定した筆力と精緻な描写力。今の純文学界では、それだけでも希少価値と思われた。

幸いというべきか――それなりのバランス感覚が働くのか、当世風批評家の嗜好に副う、文章も作りも派手に壊れている作品が芥川賞に選出される一方では、従来型――同人雑誌型と言い換えてもいいかもしれない――の比較的日本文学的な作品が時々選出されているように思う。

比較的日本文学的と書いたのは、文章がそうでも作りはそうでもないからである。戦略としてそうさぜるをえないのか、そんな書きかたしかできないのか、個別に見ていく必要があるだろう。

ホッとさせられたのも束の間、『銀杏神社』を読み進め、わたしはその美々しく描写された銀杏がアイテムとして使われていることに気づいた。となると、この作品は従来型の日本文学的なものではない。

ストーリーを追ってみる。

老女ミサは、神社で銀杏の葉をビニール袋に集めている。逝った夫惣一の遺体にかけるために。遺体は生乾きだ。ミサは死体遺棄罪に問われることを承知で、夫の希望に応えようとしているのだった。夫は「わしが、死んだら、焼かずに、ここの銀杏の落葉の中に、埋めて、くれ……腐るまで」と言ったのだった。

ひとり息子が湿地帯の銀杏の葉に埋もれた状態で夭折した過去があった。湿地帯は埋められ宅地となり、銀杏の木々も伐採されて神社に群生されるものだけが残る。惣一は銀杏を求めて神社に通う。銀杏の群生が惣一の拠り所となっていった。それが、夫に前掲の言葉を言わせ、ミサが銀杏の葉を集め続ける行為の動機なのだ。

死ぬ前から惣一の魂は体を離れ、神社にいることがあった。死後も神社を彷徨っている。「もし夫ならば何か未練があって神社をさまよっているのだ。それを認めることが辛かった。自分の真心でその未練を拭ってやりたかった」とミサは思う。この辺り、どうにも解せない。ミサの行為はわたしには、夫の魂をこの世に呪縛するための儀式か何かのように思えてしまう。

『銀杏神社』では老醜がモチーフかと思われるが、それだけでエンディングまで引っぱっていこうとしたかのような単調さがあり、老醜の先に来る死の扱いにしても、作者の死生観がはっきりしないための場当たり的な印象を拭えない。

息子が神社で死んだのなら、そしてミサが惣一を神社に埋めるのならまだしも納得がいくだろうか。夫婦の銀杏の葉に対する異常なこだわりにも、もう一つ説得力がない気がする。

ストーリーの不自然さは、モチーフと思いつきを強引につないだためではないかと思われる。核となるべき観念の形成ができていないのは、その原動力となるべき作者の哲学とか思想といったものが希薄だからではないだろうか。

明治期から日本文学が手本としてきた西洋文学は、何よりその部分を大事にしてきた。しかし、当世風評論家は、そんなものは腹の足しにならない、技巧と技巧が要求するお手軽な知識さえあれば上等といっているかのようだ。

端正な筆致に、この小説の展開は似合わない。

ところで、わたしには長年賞狙いを続けたことからきた弊害があり、「日田文学」の合評会で、河津さんからそのことを指摘されたことがあった。近藤くんのこの作品に、わたしはそれと同じものを感じずにはいられない。しかし、文学的には瑕となるそれも、今のわが国の文学界ではその限りではないようだから、わたしの感想など無意味と思っていただいたほうがよいと思う。

*1:ブラヴァツキー夫人の神智学を誹謗中傷する人々 ②三浦関造の雛たちに危いまなざしを向ける人

*2:マイクロブログサービスTwitterでの発言を任意の順序に並び替えたり、取捨選択したりして表示できるサービス( ウィキペディアの執筆者. “Togetter”. ウィキペディア日本語版. 2016-04-22. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Togetter&oldid=59442762, (参照 2016-06-06). )

*3:Notes:不思議な接着剤 #30/カタリ派について#3

*4:ウィキペディアの執筆者. “笠井潔”. ウィキペディア日本語版. 2016-03-29. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%BD%94&oldid=59140394, (参照 2016-06-05).

*5:文藝春秋文學界 平成二十三年八月号」 ‐ 「新人小説月評」に対する私的不信感