マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

65 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」

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出典:Pixabay

 

オーラの美しさ

オーラが見え始めたのは、大学時代だった。

わたしがいうオーラとは、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学ニッポン・ロッジ、竜王文庫、1995・改版)の「用語解説」にある、「人間、動物、その他の体から発散される精妙で目に見えないエッセンスまたは流体」*1を意味する。

人間が不死の部分と死すべき部分からできているということを知らなければ、オーラが何であるのかを理解することはできない。このことの詳細――人間が七つの構成要素からなるということを、わたしはH・P・ブラヴァツキーの神智学の論文を通して教わった。

すなわち、人間が不死の三つ組みと死すべき四つ組からなることを。七つの構成要素のそれぞれについて学ぶことはわたしには歓びだったが、一般の方々はどうであろうか。

わたしにとって、オーラの美しさに匹敵するものはこの世になく、オーラの美しさをいくらかでも連想させるものといえばオーロラくらいなので、ときどきしかオーラが見えないのはつまらないことに思っていた。

オーラに関する補足がある。エッセー 117西方浄土」という表現に関する私的発見。オーラに関する補足」を参照されたい。: エッセー 65「神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』」でわたしは、オーラの光を連想させるものはこの世ではオーロラしかないと書いたが、純白の雲を浸して柔らかに迸る神々しい光もまたオーラを連想させるものであることを補足しておかねばならない。

最近までずっとそう思っていたので、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えた 20 年も前のことを毎日のように回想し、あのように美しい光にいつも浴していられればどんなに幸福なことだろうと思っていた。

しかし最近になって、オーラはたまに見えるくらいが丁度よいと思えるようになった。

尤も、強く意識し目を懲らせば、オーラというものは低い層のものなら容易く見ることができる。

物体の輪郭――例えば開いた手の輪郭に目を懲らしていると、指の輪郭を強調する、ぼんやりとした弱い光が、次いで夕日の残照のように射して見える色彩やきらめきなどが見えてくる。さらに目を懲らしていると、光はいよいよ豊富に見え出す。

だが、そんな風に意図的にオーラを見ようとする試みは疲労を誘うし、その水準のオーラを見ても、つまらないのである。自然に任せているのに、オーラが断片的に見えることはちょくちょくあるが、そのオーラがありありと見えることはわたしの場合はまれなのだ。

ありありと見えるオーラーーオーリックエッグと呼ばれるオーラの卵そのものは、観察される人の高級我が自ら開示してくれる場合にのみ、その許された範囲内において、観察可能なのではないかとわたしは考えている。

創作中は自身のハートから放射される白い光に自ら心地よく浴していることが普通の状態で、創作が生き甲斐となっているのもそれが理由なのかもしれない。

生者のオーラに関していえば、それが見えるとき、肉体から放射される光のように見えていて、肉体はその光が作り出す影のように見える。観察する側の感受性が高まれば高まるほど、その影は意識されなくなっていき、遂には光だけが意識されるようになる。

死者についていえば、死者を生きていたときのような肉体としての姿で見たことはまだない。死者が訪れ、近くに死者がいたときに、輪郭をなぞる点描のようなものとして見えたことがあった以外は、ほとんど何も見えなかった。いわゆる幽霊が見えたことは一度もないのだ。

それなのに、存在は感じられた。そして、たまたま死者の訪問時に死者のオーラが見えたこともあったが、そのとき、おそらくわたしは生者のオーラを見るときと同じように死者のオーラを見ていたのだと思われ、死者の肉体が存在しないせいか、光だけが見えたのであった。

たぶん、わたしの感受性がこの方向へ日常的に高まれば、物体は圧倒的な光の中に縮んだ、おぼろな影のようにしか見えなくなるだろう。オーラは人間にも動物にも植物にも物にすらあるので、留まっている光や行き交っている光のみ意識するようになるに違いない。世界は光の遊技場のように映ずるだろう。

そのとき、わたしはこの世にいながら、もうあの世の視点でしかこの世を見ることができなくなっているわけで、それは地上的には盲目に等しく、この世で生きて行くには不便極まりないに違いない。

以下の断章は、神智学徒だった高齢の女性のオーラを描写したものだ。

頭を、いくらか暗い趣のあるブルーが円形に包み込んでいた。その色合いはわたしには意外で、先生の苦悩ないしは欠点を連想させた。全身から、美麗な白色の光が力強く楕円形に放射されていて、その白い楕円の周りをなぞるように、金色のリボンが、まるで舞踏のステップを踏むように軽やかにとり巻いていた。金色の優美さ、シックさ、朗らかさ。あのような美しい白色も、生き生きとした金色も、肉眼で見える世界には決してない。

そのときわたしはあの世の視点で他者のオーラを見ていたわけで、そのときのオーラは物質よりも遙かに存在感が勝っており、こういういい方は奇妙だが、光の方が物質よりも物質的に思えるほど重厚感があった。反面、女性の肉体は存在感のない影だった。

圧倒的な白色を、まるで保護するように取り巻いていた金色のリボンは何かの役割を帯びた組織なのだろうが、その組織の性質が作り出す形状は装飾的といってもよいぐらいだった。

ここで、わたしはフィレンツェの画僧フラ・アンジェリコの描く、あまりにも物質的な形状の天使の翼や後光を連想するのである。

フラ・アンジェリコの描く、あまりに物質的な天使の翼や後光の謎

15世紀前半のフィレンツェを代表する、画家フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico)。アンジェリコは「天使のような」という意味である。

佐々木英也監修『NHK フィレンツェルネサンス 3  百花繚乱の画家たち』(日本放送出版協会、1991)によると、フラ・アンジェリコは1400年頃、フィレンツェ北方の丘陵地帯ムジェッロのヴィッキオ付近で、農民の子として生まれ、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院で1455年2月18日、亡くなった。

フラ・アンジェリコの三つの名前について、前掲書(第 1 章の本文・作品解説、森田義之)より引用する。

俗名をグイド・ディ・ピエトロ、僧籍名をフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレ・そして死後まもなく敬意を込めてフラ・アンジェリコ、あるいはベアート・アンジェコの愛称で呼ばれた。「フラ」は「フラーテ(修道僧)」の略称、「ベアート」は「神に祝福された者」という意味で、彼の場合「福者」を意味する教会の正式の位階名ではない(ちなみに「アンジェリコ」の呼称が最初に登場するのは1469年のことである)。*2

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我に触れるな(制作年:1402 - 1455),フラ・アンジェリコ(1395頃 - 1455)
出典:Wikimedia Commons

「受胎告知」や この「我に触れるな」が特に有名である。しかし、ここでは後光に注目してみたい。

どんな形状のものであるかをざっと示すためだけに、画集から部分的に撮らせていただいた。

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「聖母戴冠」の一部。

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最後の審判」の一部。「聖母戴冠」の天使たち。「最後の審判」の絵の中で、手をつないでいる天使たちと聖者たち。
後光や天使の翼の装飾的なことといったら、笑止千万なほどだ。天使を前から見ても後ろから見ても、後光が後ろに張り付いている可笑しさ。頭を載せる黄金の皿のようだ。金色のシャンプーハットをつけているようにも見える。

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受胎告知(制作年:1450年頃),フラ・アンジェリコ(1395頃 - 1455)
出典:Wikimedia Commons

この「受胎告知」では、後光が頭に載った板としか見えない。

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ヌルシアのベネディクトゥス(制作年:1437-1446年頃),フラ・アンジェリコ(1395頃 - 1455)
出典:Wikimedia Commons

聖ベネディクトの頭部を飾っているのは、どう見ても、金箔があちこち剥げてしまった円形の板である。

この謎は、前掲書『NHK フィレンツェルネサンス 3  百花繚乱の画家たち』の中の森田義之「天使の翼」というエッセーを読むと、解ける。以下に引用させていただく。

フラ・アンジェリコの美しい天使たちのイメージ・ソースはどこにあったのだろうか。ひとつは、イタリアの現実の子供たちの文字通り天使的な美しさである。……(略)……もうひとつは、当時の宗教劇の華麗なコスチュームである。……(略)……フラ・アンジェリコの天使たち――それは現実のフィレンツェの子供たちと、宗教劇の舞台的華麗さと、芸術的想像力が幸福に結びあって生み出された、永遠の美のイメージなのである。

後光の不自然さは、宗教劇における装いが描写されたためだということがわかる。

ただ、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えたとき、体の周囲に卵形に拡がるオーラを縁取る金色のリボンが高級な工芸品のようにすら見えたことを思い出せば、わたしの視点が完全にあの世的な視点となったら、一種の逆転現象が起きて、光の世界こそ、物質的な様相を呈するかもしれない――などと思ったりもする。

多くの宗教画家は天上的光を地上世界に投げかけるが、フラ・アンジェリコの工芸的な徹底ぶりは、彼が完全に天上の側に入り込んでしまっていることを意味しているのかもしれない。

草花の描き方なども印象的で、存在感が際立っている。幻想性を帯びて見えるほどだ。装飾写本画家からスタートしたフラ・アンジェリコならではの描き方といえるのかもしれない。

ところで、図書館からアントニオ・タブッキの本を 2 冊、『供述によるとペレイラは……』(須賀敦子訳、白水社、1993)と『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(古賀弘人訳、 青土社、1996)を借りたのだが、ずいぶん前のこととはいえ、『インド夜想曲』を読んだことがありながら、タブッキが神智学と関係があるということを忘れてしまっていた。

アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』について

アントニオ・タブッキ(Antonio Tabucchi,1943 - 2012)はピサで生まれたイタリアの作家、学者、翻訳家である。ポルトガルの国民的作家フェルナンド・ペソア(Fernando António Nogueira de Seabra Pessoa,1888年 - 1935)の研究者としても知られている。

タブッキと神智学協会の関係については何も知らないのだが、例えば「以下の文章は偽りである。以上の文章は真である。」という作品で「マドラスの神智学協会でお会いした日から三年が過ぎました」などと出てくるところからも、作風からも、彼が神智学協会と何の接触もなかったと考えるほうが不自然だろう。

『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』の表題作で、タブッキはベアト・アンジェリコ、すなわちフラ・アンジェリコを登場させている。

ここでの主題は、天使のような――と形容されるフラ・アンジェリコがどのような霊感をどのように受けて天使を描いたかということで、その結論が、サン・マルコ修道院の野菜畑に墜ちてきた三羽の翼あるものということになるのだろう。

この作品は自然美とフラ・アンジェリコの純朴さを描いた逸品であろうが、どうだろう、キリスト教的主題として読むと、ひどく違和感を覚えるのはわたしだけだろうか?

少なくとも、キリスト教的とはいえないのではあるまいか。

ここに描かれたフラ・アンジェリコの世界は異教的であるに留まらず、解釈次第では冒涜的とすら感じさせる甚だ挑戦的な側面もあるということになるのかもしれない。

ここで、わたしは先述した人間の七つの構成要素について改めて紹介しておかないと、話が進まなくなってしまった。H・P・ブラブゥツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(竜王文庫、1995)の用語解説より、その七本質を紹介しておきたい。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ*3

アストラル体サンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。エーテル複体、幽体、ドッペルゲンガーなどといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれている。

神智学では、真の霊感は完全に清められた心を通して高級自我からやってくるのである。

画僧フラ・アンジェリコが受けた宗教的、芸術的霊感にせよ、「受胎告知」という形式をとったマリアが受けた霊感にせよ、それが本当の意味の霊感であれば、同じ過程をとるはずである。(「続きを読む」に転載した拙基幹ブログ「マダムNの覚書」の2009年12月19日付記事「Notes:不思議な接着剤 #34/ペテロとパウロについての私的疑問/『マリヤによる福音書』についての私的考察#1」を参照されたい。)

また、神智学徒は妖精好きで知られることがあるが、それは神智学徒には万物が内に秘めている生命は同じ根源から来たすばらしいものだという認識があるためで、動物も植物も鉱物も、そして神智学徒には知られているエレメンタル(地・水・火・風という四つの自然界または四大元素の中で進化したもの)のうちのいわゆる妖精のような存在も皆、兄弟姉妹と感じられるからなのだ。

タブッキの『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』に出てくる三羽の翼あるものはどう読んでも天使ではなく、妖精で、画僧フラ・アンジェリコはその三羽の妖精たちから着想を得て絵画制作したという、キリスト教小説からはほど遠いファンタジーとなっている。

三羽の妖精たちはいずれも弱く、可憐で、フラ・アンジェリコの思いを映し出したりもする。妖精の一羽がネリーナという画僧の思い出にある女の子の顔立ちをしているのは、そのためだ。

以上のことから、この小説はキリスト教的世界観によってではなく、神智学的(神秘主義的)世界観によって描かれているようにわたしには思われる。

 

マダムNの覚書、2014年1月21日 (火) 20:07

 

 

Notes:不思議な接着剤 #34/ペテロとパウロについての私的疑問/『マリヤによる福音書』についての私的考察#1:「マダムNの覚書」2009年12月19日 (土)< http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/12/notes347-68b3.html >

【付録】ペテロとパウロについての私的疑問:『マリヤによる福音書』についての私的考察

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岩波書店から1997年から98年にかけて刊行されたグノーシス主義の文書――ナグ・ハマディ文書シリーズは全 4 冊、荒井献・大貫隆責任編集。内容構成は以下のようになっている。

Ⅰ救済神話 荒井献・大貫隆小林稔

ヨハネのアポクリュフォン/アルコーンの本質/この世の起源について/プトレマイオスの教説/パシリデースの教説/パルクの書/解説

福音書 荒井献・大貫隆小林稔・筒井賢治訳

トマスによる福音書/フィリポによる福音書/マリヤによる福音書エジプト人福音書/真理の福音/三部の教え/解説

Ⅲ説教・書簡 荒井献・大貫隆小林稔・筒井賢治訳

魂の解明/闘技者トマスの書/イエスの知恵/雷・全きヌース/真正な教え/真理の証言/三体のプローテンノイア/救い主の対話/ヤコブのアポクリュフォン/復活に関する教え/エウグノストス/フィリポに送ったペトロの手紙/解説

Ⅳ黙示録 荒井献・大貫隆小林稔・筒井賢治訳

パウロの黙示録/ヤコブの黙示録1・2/アダムの黙示録/シェームの釈義/大いなるセツの第二の教え/ペトロの黙示録/セツの三つの柱/アロゲネース/解説

『マリアによる福音書』は『ナグ・ハマディ写本』には含まれていないが(『ベルリン写本』『オクシリンコス・パピルス』『ライランズ・パピルス』から見つかったものが知られている)、このナグ・ハマディシリーズに収録されている。

わたしは真っ先に『マリヤによる福音書』を読んだ。

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冒頭で紹介されている『マリヤによる福音書』の内容構成は、以下。

(1-6は欠損)

 一 救い主の弟子たちへの教え(の続き)(7の1-9の5)

物質の消滅についての問いと答え(7の1-9)
世の罪についてのペトロの問いと答え(7の10-20)
人の死について(7の20-8の2)
パトスについて(8の2-11)
内にいる人の子について(8の11-21)
宣教命令(8の21-22)
法についての指示(8の22-9の4)
救い主の退去(9の5)


 二 その教えに対する反応(9の5-10の6)

彼が去った後の弟子たちの悲しみ(9の6-11)
マリヤの勧告(9の12-25)
ペトロのマリヤへの要請(10の1-6)


 三 マリヤが救い主から受けた啓示を語る(10の7-10、15の1-17の9)

幻について(10の7-10)
(11-14は欠損)
心魂の上昇の叙述(15の1-17の9)


 四 マリヤの話に対する反応(17の10-19の2)

アンドレアスの否定反応(17の10-15)
ペトロの同調(17の15-22)
マリヤの抗議(18の1-5)
レビの叱責と勧告(18の5-21)
弟子たちの出発(19の1-2)

 一はイエスと弟子たちの対話篇。

二はイエスが去った後の場面。弟子たちは、イエスの宣教命令に対する困難を想像して動揺し、涙を流して嘆く。それに対して、マリヤ(このマリヤはマグダラのマリヤとされる)は彼らを力強く励ます。弟子たちはよい刺激を受けて、イエスの言葉について議論し始める。そこへペトロがいう。他の女性達に勝ってイエスに愛されたマリヤにだけ話されたイエスの言葉を聴きたいと。

三は、マリヤがペトロの頼みを受けて語る場面。わたしが神秘主義的観点から特に興味を惹かれた箇所を、以下に抜粋しておきたい。

 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう」といった。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。「私は」と彼女は言った、「私は一つの幻の内に主を見ました。そして私は彼に言いました、「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」彼は答えて私に言われました。
「あなたは祝されたものだ、私を見ていても、動じないから。というのは叡智のあるその場所に宝があるのである」。
 私は彼に言いました、『主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂〈か〉霊(か、どちらを通して〉なのですか』。
 救い主は答えて言われました。「彼が見るのは、心魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中に〔ある〕叡智、幻を見る〔もの〕はそ(の叡智)であり、そ(の叡智)こそが……

話題はここでパウロに飛ぶが、わたしは以下の2点において、パウロに疑問を抱いてきた。

(1)イエスによる啓示の強引さ。

(2)パウロの言葉が発する女性蔑視の臭気。

神秘主義的観点からすれば、高級霊が(1)のように強引にこの世の人間に関わることはありえない。わたしが高級霊といったのは、パウロの体験に見るイエスの出現の仕方と、イエスが神的であるとするキリスト教の主張を折衷させて考えるとすれば、この存在しかありえないからだ。

それでも、高級霊の出現の仕方としては俗っぽすぎて、何なのだろうと思っていた。キリスト教の信者ではない率直さでいうと、わたしはパウロのいうイエスは、イエスではないと思う。パウロの体験は、トンデモ宗教の神に憑かれたトンデモ教祖の体験と区別がつかない。

それが『マリヤによる福音書』に描かれる内的体験としてのマリアが受けた啓示は、高級霊の関わりかたとして見ても、彼女の内なる神性との関わりかたとして見ても、おそらくその双方であろうが、キリスト教の信者ではないわたしには納得のいくものだ。

神秘主義的には高級霊は、その人に潜む神聖な意識(高級我)を通してしか関わることができないからなのだ。高級なものは高級なものにしか関わることができない。このことは、以前わたしが過去記事:エッセー『卑弥呼をめぐる私的考察』の中で紹介したような、宇宙と人間の七本質に関する基礎知識がなくては理解に苦しむだろうと思う。

わたしには今それをここで詳しく解説するだけのゆとりがないが、再度、H・P・ブラブゥツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(竜王文庫、1995)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

アストラル体サンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれており、マリヤが伝えるイエスの言葉は、わたしにはそのことを意味しているように思われる。

なぜなら、このあと『マリヤによる福音書』ではイエスの教えとして、心魂の上昇する旅が描かれているからで、心魂は七つの権威(煩悩と解釈できよう)――闇、欲望、無知、妬み、肉の王国、肉の愚かな知恵、怒っている人の知恵――に打ち勝ち、時間の、時機[とき]の、永久の安息へと至るのだ。

では、弟子たちの前にイエスが復活したという福音書におけるリポートをどう解釈するかであるが、他の弟子たちはマリヤほどの高い境地には達していなかったため、死んだイエスには、《復活》するしか彼らと接触する手段がなかったということは神秘主義的に考えれば、充分ありそうなことだと思われる。

パラマンサ・ヨガナンダ著『ヨガ行者の一生』(関書院新社、昭和35)では、ヨガナンダの師匠であったスリ・ユクテスワァが死後に出現する場面が、感動的なタッチで描かれている。

尤も、ヨガナンダの場合は優れた弟子であったから、ユクテスワァは、イエスがマリヤに出現したのと同じような、死者自身に負担の少ない出現の仕方もできたはずだが、ユクテスワァはヨガナンダを喜ばせるために、あえて《復活》してみせたのだろう。

その場面を前掲の『ヨガ行者の一生』から引用する。

 1936年6月19日の午後3時――つまり、ボンベイのホテルでベッドの上に座っていた私は、名称しがたい歓喜の光によって瞑想から覚まされた。すると、驚いたことに、部屋中が不思議な世界に変わっている。天来の光輝が日光にとってかわっているのである。

 肉体の形をとったスリ・ユクテスワァの像を見た私は、恍惚の波に包まれた。
「私の息子よ」先生は天使のように魅力的な微笑をたたえながら優しくいった。
 私は生まれてはじめて跪座の礼も忘れて、飢えたように先生を両腕に抱きしめた。ああなんという素晴しい瞬間だろう! 今私の上に降った奔流のような至福に比べるならば、過去数ヵ月の苦悩は物の数ではなかった。
「私の先生、私の心の愛するお方、あなたはどうして私を置いて行かれたのですか」私は喜びの余りわけのわからぬことを口走った。「どうして先生は、私にクムパ・メラに行くことを許されたのですか。私はあの時先生の傍を離れたことをどんなに後悔したか知れません!」
「私は、ババジと私の邂逅の地を見たいという、お前の美しい期待をさまたげたくなかったのだ。私はお前とほんの暫く離れているだけだ。お前もいつかは私の処に来るのではないかね?」
「でも、これは本当に先生なのでしょうか、あの神のライオンである先生なのでしょうか? 先生が今着ておられるその肉体は、私がプリの庭に埋葬したあの肉体と同じものなのでしょうか」
「そうだ、子供よ。同じものだ。これは血の通う肉体だ。私の眼にはエーテル体に見えるが、お前の眼には物質に見えるであろう。私は宇宙原子から全く新しい体を創ったのだ――お前が夢の国で、プリの夢の砂地に埋葬した夢の肉体と全く同じ肉体を、わたしは実際に復活したのだ。此の世でなしに、幽界に――幽界の居住者達は、此の世の人々よりもずっと容易に私の高い水準に順応することができる。お前も、お前の愛する高弟達も、いつかは幽界の私の許に来るであろう」

ちなみに、ヨガナンダの死に際して起こったことを前掲の『ヨガ行者の一生』から紹介すると、晩餐会における演説を終えたヨガナンダはマハーサマージ(ヨギが肉体を脱する際の意識状態)に入った。そして遺骸に関する検証は、20日経って柩に青銅の蓋がかぶせられる直前になっても死体の状態には何ら分解の色が見えず、死臭が漂うことも全然なく、生前そのままの状態を維持していた……と驚きを持って報告している。

前掲の『実践的オカルティズム』では、アデプト(イニシエーションの段階に達し、秘教科学に精通されたかたをいう)は、特別な場合に使うために作られるマーヤーヴィ・ルーパー(幻影体)を自在に使うことができると解説がある。

そこまでレベルを落とさなければ、マリヤ以外の弟子たちにはイエスは出現できなかったのだとしたら、イエスの復活は、復活という負担を師匠に強いらねばならなかった弟子たちの――弟子に選ばれたにしては――一般人とあまり変わらない劣等生ぶりをあかし立てる恥ずかしい事態以外の何物でもないとわたしは思う。その後、イエスの《復活》が満艦飾にイルミネーションされ、広告塔に使われたことを考えると、恥ずかしいというより、人類を知的に退化させるあまりの愚かしい事態に戦慄を覚える。

マリヤは『マリヤによる福音書』の中では、イエスが愛した女性として、そして、イエスに愛されるに足るだけの高い境地に達した愛弟子として描かれている。しかしマリヤの言葉が、ペトロはじめ弟子たちの嫉妬と不審を買ったらしいことが四のくだりでわかる。その様子は、あまりにも人間臭く、生々しい。

 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言(いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが)、彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選ん〈だ〉というのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき、〔マ〕リヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った、「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘してるのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために(完全なる人間)を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく」。〔    ±8    〕したとき、彼らは〔告げるため〕、また宣べるために行き始めた。

ペトロたちを、ここではレビが諭すことにどうやら成功したかのようだが、その後にマリヤが排斥、追放されたことはありえることだ。でなければ、『マリヤによる福音書』が隠されてなどいただろうか。『マリヤによる福音書』の欠損が惜しい。

わたしにはイエス仏陀のような、この世という学校を卒業したけれど、後輩の指導のために、あえて母校を訪れてくれた親切なOBの一人としてしか、思い描くことはできない。

もし、パウロがイエスに由来すると思い込んだ体験が茶番劇でなければ、彼の精神を受け継いだ教会のその後の強引で暴力的な行いと、世俗的な成功は何だろう?  その哲学性ゆえに男女平等の立場を貫くグノーシス主義が勝っていたら、キリスト教にも女教皇が当然のようにいただろうし、東西の思想的な分裂もそれほどではなかったかもしれない。

正統性を声高に暴力的に主張するカトリックとの関わり合いの中で、グノーシスの精神を受け継いだカタリ派デミウルゴス(創造神)を悪魔とまで言い切る姿に、わたしは彼らの歴史的に形成されたトラウマ(精神的外傷)を見る思いがする。

後世に希望を託して写本を隠した人の思いは、如何ばかりであったろう。このことを逆から見れば、それまでは隠す必要がなかったわけだ。

 

マダムNの覚書、2009年12月19日 (土) 10:25

*1:ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説「オーラ(Aura,希/羅)」p.22

*2:森田,1991,p.11

*3:ブラヴァツキー,田中&クラーク訳、1995,用語解説「本質(Principle)」pp.23-24