マダムNの神秘主義的エッセー

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72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日

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45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年
71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日
74 祐徳稲荷神社参詣記 ④神仏習合

 

神社という聖域には、実際に萬子媛のような高級霊が地上界を見守っていらっしゃるケースがあるということを、わたしは神秘主義的見地から確認してきた。

萬子媛のようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本は持つことがなかったわけである。

わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。すると、時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

宗教的装いは違っても、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている萬子媛のようなかたが存在することをわたしは知ったのだった。

この純正ボランティア精神が生じた背景を知りたい。このかたはどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることでもあるのだ……


萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を率いる尼寺であった。

再びざっと、萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、62歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している。


ここで、郷土史家・迎昭典氏のご著書『鹿島市年表』(日本史、肥前国史、佐賀県史、鹿島地方史)から、江戸幕府が開かれた年から萬子媛の没年まで(1603年 - 1705年閏4月10日)、外国の影響を表している出来事をピックアップしてみたい。(青字は鹿島地方史:引用者)

1606(慶長ケイチョウ 11)・2月、大村藩初代藩主大村喜前,伴天連追放を命ず。
1607(慶長 12)・浜にドミニコ教会建立
1608(慶長 13)・鹿島に教会建立。※「年譜付録」には高松九郎右衛屋敷は切支丹屋敷。忠茂も来た,とある。
1609(慶長 14)・5.30オランダ船2隻、平戸に入港。・8.22平戸オランダ商館設立
1610(慶長 15)・有馬晴信、セニョーラ・ダ・グラサ(マードレ・デ・デウス)号を長崎港外に襲い沈める。
1612(慶長 17)・嬉野にイエズス教会建つ。
1613(慶長 18)・2.19幕府、キリスト教を禁止。・秋ごろ、鍋島氏は領内から神父らの追放を命じる。
1614(慶長 19)・長崎の11教会破却。・有家、口ノ津のキリシタン45人殉教。・9.24幕府、聖マルチノ・高山右近ら、キリシタン148人海外に追放。
1615(元和ゲンナ 2)・8.8幕府,再びキリスト教禁令。・オランダ・イギリスの貿易を平戸・長崎に制限。
1622(元和 8)・長崎でキリシタン55人を処刑。(元和の大殉教)
1623(元和 9)・11.13平戸イギリス商館閉鎖。イギリス人,日本から撤退。
1626(寛永カンエイ 3)・閏4.26長崎奉行水野守信,イエズス会宣教師らを処刑。
1627(寛永 4)・この年,長崎奉行水野守信,キリシタン340人を島原藩松倉重政に引き渡し処刑させる。
1628(寛永 5)・5月幕府,ポルトガルと断交(~寛永7年)・7月幕府,オランダと断交(寛永 9年)。
1634(寛永 11)・この年,長崎に出島築造に着手。(1636年完成)
1635(寛永 12)・幕府,外国船の入港を長崎・平戸に限定し、日本人の海外渡航・帰国を禁じる。
1636(寛永 13)・5.10長崎に出島を完成し,ポルトガル人を収容。(第4次鎖国令)。・9.24ポルトガル人妻子ら287人をマカオに追放。
1637(寛永 14)・島原の乱
1637(寛永 14)・島原の乱に鹿島からも田中安心(83歳)以下1,113人出兵。ただし,勝茂の命で佐賀城の守りに変更。
1638(寛永 15)・原城陥落。・鍋島勝茂,軍令違反により幕府から閉門の処罰を受ける。
1639(寛永 16)・鎖国令。(第5次)・ポルトガル人の来航を禁止する。・オランダ人・中国人のみ貿易許可。
1641(寛永 18)・この年,長崎警護役始まる。(1643年より福岡藩と1年交代)
1647(正保ショウホウ 4)・6.24南蛮船(ポルトガル)2隻長崎入港。佐賀藩兵出動8,350人。
1647(正保ショウホウ 4)・鍋島直朝,はじめて長崎の警備に赴く。
1655(明暦メイレキ 元)・この年,大村のキリシタン島原で処刑される。
1657(明暦 3)・大村領内のキリシタン600余人捕らえられる。(郡崩れ)
1660(万治マンジ 3)・本藩主光茂病のため,直朝,名代として急遽江戸から長崎の警備に赴く。総勢700人。
1673(延宝エンポウ 元)・5.25イギリス船,長崎に入港して貿易を願い出る。幕府,その要求を拒否。
1674(延宝 2)・2月,キリスト教禁制の高札立つ。
1685(貞享ジョウキョウ 2)・幕府,金銀の国外流出を抑えるため長崎貿易を制限する。
1689(元禄ゲンロク 2)・幕府、長崎に唐人屋敷を設ける。
1690(元禄 3)・ドイツ人ケンペル,出島商館医として来る。嬉野・佐賀・田代などを通る。

迎昭典著『鹿島市年表』29~40頁より

阻止したい外国からの影響力に対し、鎖国令、キリスト教禁令を出したからといって、素直に聞き入れる外国人ばかりではなかった。何度も出されたキリスト教禁止令、鎖国令がこのことを物語っている。

幕府がキリスト教を禁止したのは慶長17年(1612)のことだった。元和2年(1617)、幕府は再びキリスト教禁令を出す。禁止令の効果がなかったのか、元和8年(1622)に「元和の大殉教」と呼ばれるキリシタン55人の処刑が行われた。見せしめの効果もなかったのか、宣教師やキリシタンの処刑はこの後も続く。そして、それと並行するように、イギリス商館の閉鎖、幕府のポルトガル、オランダとの断交が行われた。

寛永11年(1634)に長崎の出島築造が着手され、翌年の寛永12年(1635)に幕府は外国船の入港を長崎・平戸に限定し、日本人の海外渡航・帰国を禁じる。が、寛永14年(1637)には島原の乱。寛永16年(1639)、第5次鎖国令……。

鎖国体制下では、長崎(幕府の管理下で清朝中国、オランダ)、薩摩(島津氏を通じて琉球)、対馬(宗氏を通じて朝鮮)、松前松前氏を通じてアイヌ)という四つの窓口を通じて外交、通商が行われた。

鎖国は、統制のとれた、こまめな警備があってこそ成り立つものだった。長崎の警備は佐賀藩福岡藩の1年交代で行われていた。

ところで、『隠元禅師年譜』(木村得玄訳、春秋社、2002年)「序にかえて」に「中国明代末期から清代初期にかけての動乱をのがれて多くの中国僧、学者、芸術家などが日本に渡っているが、なかでも黄檗宗の禅僧の数がもっとも多い」と書かれている。

黄檗宗臨済宗曹洞宗と共に禅宗の一つで、4代将軍・徳川家綱(1651生 - 1680没)のときに、明から渡来した隠元隆琦(いんげん りゅうき 1592生 - 1673没)によって開かれた宗派である。

脅威であったキリスト教とは異なり、中国からの亡命者は徳川幕府の脅威とはなりえなかったのだろう。前掲書『隠元禅師年譜』には、中国明代の中国禅をそのまま日本に伝えた隠元が家綱の信頼を得て宇治に万福寺を建立したとある。

家綱の時代は、3代家光までの武断政治文治政治へと転換した時代だった。新田開発、治水、交通・流通網など、インフラ整備を行った。萬子媛の夫、直朝が行った治水事業、干拓地造成、新田開発なども、江戸幕府発インフラ整備の一環だったのだろう。

隠元隆琦の渡来は1654年のことで、隠元は63歳であった。1625年生まれの萬子媛は、このとき29歳である。黄檗宗がもたらした文化は「黄檗文化」と呼ばれる。

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喜多元規筆 1671年 萬福寺蔵 紙本着色 重文
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ウィキペディアによると、「隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した」*1という。

隠元隆琦は普茶料理という中国式の精進料理を伝え、日本における煎茶道の開祖となった。

わたしの大好きな胡麻豆腐は代表的な普茶料理の一つという。「麻腐」(マフ)というらしい。煎茶も胡麻豆腐も日本文化に溶け込みすぎていて、黄檗宗に育まれたものだとは知らなかった。

普茶料理は、異国情緒を味わうものとして黄檗宗の寺院ばかりでなく、料理屋や文化人など、民間でも広く嗜まれた」*2という。また、「インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を日本へもたらした」*3のも隠元隆琦である。

有田を中心として焼かれる磁器は有田焼と呼ばれるが、伊万里港から積み出されていたため、伊万里焼とも呼ばれる。これとは別に、大川内山にあった鍋島藩直営の窯で焼かれた献上用の高級磁器は鍋島焼と呼ばれた。

萬子媛が生きていた江戸初期から中期にかけて、黄檗宗が流行り、人々は普茶料理に親しんだ。そして、佐賀藩の有田で焼かれた磁器及び献上用の鍋島焼は、普茶料理に使用されたであろう。

21歳で早世した萬子媛の次男・式部朝清は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂(1632生 - 1700没)に仕え、佐賀に住み、光茂の信頼厚く「親類同格」の扱いを受けていた。

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鍋島光茂像(高伝寺蔵)
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

光茂は三家格式を定めることで、蓮池藩小城藩鹿島藩の三支藩を完全な統制下に置いた。古今伝授を受けるほどに和歌を好み、彼は『葉隠』の語り手となる山本常朝の主君であった。また、寛文2年(1662)、幕府に先んじて殉死を禁止している。

明敏な頭脳を持ち、政治的、文化的に先取的動きを見せる光茂が黄檗宗煎茶道と関係が浅かったとは考えられないし、彼は鍋島焼とも関係が深い。鍋島焼との関係の深さは、元禄6年(1693)に光茂が有田皿山代官に与えた手頭(指示書)からも明らかである。

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大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市)鍋島焼
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

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大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市)鍋島焼 橋
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

鍋島藩で焼かれた磁器は、江戸時代に花開いた黄檗文化の形成に関係していたといえよう。このように黄檗宗は幕府の鎖国政策の下で流行し、鍋島藩黄檗文化の流布に一役買っていたようである。

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前置きが長くなったが、ここからが平成29年(2017)、6月8日の祐徳稲荷神社参詣記となる。

途中でお昼近くになったので、ドライブインに寄った。

萬子媛にお目にかかる緊張感から、わたしは何も飲食しなかった。以前は何も考えずに気軽に行けたのが不思議なくらいだ。

車で高速を飛ばしても、片道3時間程度かかる。長距離運転になるので、途中で休憩をとらないわけにはいかない。そうなると、到着時間はさらに遅くなる。御祈願の受付時間には間に合うとしても、16時半には閉まってしまう祐徳博物館には間に合わないかもしれない。

博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまった。

日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をした。

何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどだった。後で、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときの平凡な印象とは、落差があった。あの美しさは、お帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えない。

御祈願をお願いしようと思い、厄年の記された表を見ると、そこにわたしの生まれた年はなかった。来年、還暦の御祈願をお願いすることになりそうだ。

神社によって、厄年の設定は違うらしい。先日、帰省した息子、夫と宇佐神宮に参拝した折に厄年の表を見ると、わたしが前厄に当たっていたので、祐徳稲荷神社で御祈願をお願いしようと思っていたのだった。

厄年に該当しないのであれば、祐徳博物館に先に行こうかな、と思った。「そちらに長居してしまうと、萬子媛がお帰りになってしまうよ。いいの?」と娘がいった。娘はわたしの神秘主義的な体験談を信じている風ではないが、合わせてはくれるのだ。

萬子媛が地上界での今日のお勤めを終え、あの世へお帰りになってしまう……そうかもしれないと思った。それでも、博物館で前回見落としがあって(結局は今回も見落としが出た)、どうしても確認のために行きたかったのだ。

そして、やっぱり長居してしまい、出ようとして博物館の受付を見ると、職員のお顔が見えた。知りたかったことをお尋ねしてみたくなった。このことがわからないと、小説が進まないのである。

閉館の時間になっていたにも拘わらず、快く質問に答えてくださった。

「江戸時代の話になりますが、祐徳稲荷神社のお寺としての前身の、黄檗宗の僧侶となられた萬子媛が創建された祐徳院の建物はどこにあったのですか?」とわたし。

これまで調べたことを総合して考えると、祐徳院は庵のような小規模の建物で、山腹にあるとしか想像することはできなかった。

ところが、萬子媛の夫・鍋島直朝の次男(萬子媛の義理の息子)で、大名になったなった直條が執筆したとされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、尼僧となった萬子媛が直條の兄・断橋和尚から譲られた祐徳院で、尼十数輩を率いたと書かれているのだ。

直條の記述からは、祐徳院を庵のような小規模の建物と考えるのは不自然である。

すると、職員はおっしゃった。「それは、ここです」

現在の祐徳稲荷神社のある一帯を漠然と指した言葉だと思われた。

祐徳院が小さな建物だという固定観念に囚われていたわたしは、後で普明寺を見学したときに、その固定観念が覆されるのを感じ、職員の言葉に納得のいくものを覚えたが、このときは固定観念に囚われていたから、職員の言葉を疑問に思いながら尋ねた。

「ここって……山腹にあったのではないのですか?」とわたし。
「実は、はっきりとしたことはわかっていないのです。廃仏毀釈をご存知でしょう? それによって、祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」と職員はおっしゃった。

はっきりしたことは不明とおっしゃっているにも拘わらず、わたしは再度尋ねていた。「では、祐徳院は本殿とか石壁社のあるあたりの山腹にあったわけではないのですね?」

職員は困ったような表情で、「萬子媛に仕えていた尼さんの石碑が岩本社のあるあたりにあったと聞いています。それで、岩本社が建てられたようです」とおっしゃった。

博物館を出たわたしたちは、神楽殿、本殿、石壁社にお参りしたあと、岩本社を探した。

岩本社には、萬子媛に仕えた尼さんがお祀りしてあるというお話で、技芸の神様だと博物館の職員は教えてくださった。

岩本社は石壁社から命婦社のほうへ行き、そこから下ったところにあった。

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祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、岩本社について、次のように書かれている。

祐徳稲荷神社
https://www.yutokusan.jp/


岩本社

ご祭神

岩本大神
岩本社は切り立った高い崖の中腹に御鎮座されています。
岩本大神は技芸上達の神様として祀ってあります。*4

わたしはエッセー 71祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日 」で、次のようなことを書いた。少し長くなるが、引用したい。

萬子媛がボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の方々を感じることがあるからだ。

萬子媛が黄檗宗の禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちなのかどうかはわからない。(……)

わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛には深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な、高級霊の雰囲気が伝わってくる。

それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。

萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。

何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

ここに書いた、萬子媛の近くに控える矜持を感じさせる女性的な存在が、岩本社に祀られている尼僧ではないかと想像したくなる。

時代も下って、鍋島藩の家臣の家に育ったと聞く母方の祖母ですら、鹿島にお嫁に来るとき――有名な軍人さんが仲人だったというから、それくらいの時代――には、3人の側に仕えていた人々と一緒にお嫁に来たと従姉がいっていたことから考えれば、萬子媛には当然そうした方々がいらっしゃって、一緒に京都から鹿島に下られたことは確かだろう。

その尼僧が技芸の神様として祀られているということは、生前、その方面の指導で優れていたからではないだろうか。こうしたことからも、京都から萬子媛と一緒に下ってきた人ではないかと思えてならない。

37歳で京都の花山院から肥前鹿島にお嫁に来られた萬子媛。萬子媛は1625年生まれだから、このとき1662年(寛文2年)。今は2017年。何と、355年も萬子媛に仕えていらっしゃるというわけだ。

出家後も、さらには死んでからも、同じように萬子媛に仕えているのだとすれば、それは萬子媛がこの世でもあの世でも、師匠あるいはリーダーとして理想的な存在であり続けているからだろう。

この世でグループを形成した人々は、あの世でも同じグループに属することがあるようだ。その逆のこともいえるらしい。

萬子媛に仕えた尼僧に神格が与えられ、技芸の神様とされていることから考えると、神社での祭事を連想させられる。明治の廃仏毀釈までは、仏事と神事がどちらも怠りなく行われていたということではないだろうか。


岩本社にお参りした後、普明寺を見学した。

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普明寺は鍋島直朝の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建された黄檗宗の寺で、鹿島鍋島家の菩提寺である。祐徳院は普明寺の子院であった。

寺域全体を竜に見立てて建物や施設が配置されているという。

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入り口に、石碑が立っていた。「不許葷酒入山門」と書かれている。なぜか夫がこの言葉の意味を知っていた。わたし以上に興味深げに、禅寺を見学する夫が不思議だった。こうした意外な一面を時々見せてくれるから、わたしは夫に飽きずに済む。

ウィキペディア「禁葷食」に、次のように書かれている。

禅宗などの寺院に行くと、「不許葷酒入山門」あるいは「不許葷肉入山門」などと刻んだ石碑が建っていることが多い。これは「葷酒(葷肉)の山門に入るを許さず」と読み、肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりした者は、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずるという意味である。*5

 ニンニク、タマネギ、ネギ、ニラ、ラッキョウが生臭い野菜に当たるようだ。

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相当に奥行きのある敷地には草木が生い茂っていて、竹林などもあり、石仏が沢山あって、建物も立派だった。

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奥のほうに見えている建物が普明寺本堂。

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「普明禅寺」と書かれている。

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大きな木魚が釣り下がっていた。木魚も、隠元隆琦によって伝えられた。

普明寺がこれほど規模の大きな禅寺とは想像していなかったので、驚いた。

しかしながら、全体が自然に抱かれすぎているというか、率直にいえば、苔むして荒れていた。鹿島市は田舎だが、祐徳稲荷神社のすぐ近くにあれほどの自然が手つかずで存在しているとは想像もしなかった。

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普明寺も、同じ敷地内の手前のほうにあった普明寺の子院である法泉寺も、廃寺のように見えた。

ただ、あそこにいた間、もう日が落ちかけて、爽やかな風が強く吹いていたので、すばらしい散策ともなった。風が静まると、藪蚊がとまりに来るので、とまっているところを何匹か退治したり退治し損なったりした。

それなのに、車に戻って体を調べてみると、一箇所も蚊に刺されていなかった。夫も娘もそうだった。この時期の藪蚊は血を吸わないのだろうか。

もしかしたら、萬子媛のお墓が神社の石壁社とは別に普明寺にあるのかもしれないと思いつつ、帰途についたのだった。


翌日、電話では失礼かもしれないと思いつつ、黄檗宗大本山である萬福寺と普明寺・法泉寺に電話取材した。

その結果、さらなる驚きという以上の衝撃に見舞われた。今回の一連の取材を通して、廃仏毀釈の爪痕をまざまざと見たように感じたからであった。

黄檗宗で断食入定が行われていたのかどうかが知りたいと思い、いっそ黄檗宗大本山にお尋ねしてみようと思い、電話したのだった。ご回答いただいたのは、宝物館の和尚様である。

電話するまでは、密教の影響から萬子媛が断食入定を実行されたのではないかと考えていた。尤も、黄檗宗密教の影響も受けているようだが、萬子媛の断食入定は特異な例ではないかと憶測していた。

黄檗宗でも行われていたようだ。いつごろまで、何人断食入定をしたのか(現代では法的に不可能)、記録が残っているのかどうかを知りたかったのだが、はっきりと記録されているわけではないのかもしれない。失礼ながら、探究心が勝って何度か同じ質問を繰り返したのだが、はぐらかされてしまった。

黄檗宗は中国・明朝の仏教が日本に伝えられたものだ。その明朝で、また日本でも行われていた過酷な修行法を伺った。

例えば、手に包帯をぐるぐる巻きにして油をさし、火をつけ、それを燈明代わりにお経を読むのだそうだ。

わたしは心の中で悲鳴を上げ、「火傷では済まない場合もあるのではありませんか?」というと、「そういえば、どこそこに指を燈明代わりにした坊さんがおったな……」と事もなげに萬福寺の和尚様。

いつの時代のお話なのだろう、恐ろしくて訊けなかった。

明朝では(日本でも?)、自らの血で仏画を描いたり、写経をしたりということも流行ったとか。

そして、断食入定はそうした過酷な修行法の一つと位置づけられていたようである。

穀類を断ち、水だけを飲んで、骨皮筋衛門になる――と和尚様はおっしゃった――修行を木食[もくじき]入道というそうだ。

そして山の斜面みたいなところに入って、「つまり生き埋めになるわけですわ。息だけはできるようにしてな」と和尚様。

「水は飲めるのでしょうか? 生き埋めになったあと」とわたし。飲めるそうだ。飲めると聞いて、安堵した。

エッセー 5 「自己流の危険な断食の思い出」で書いたことだが、わたしは無知だったために大学時代に危険な自己流の断食を行い、4日しか続かなかった体験の中で、一番困つらかったのが水まで断とうとしたことだった。

無茶な断食は吐き気との闘いであり、仕方なく、止まらない吐き気を止めるときだけ水を飲むようにした。水をも断つ断食入定であれば、それはどう考えても、わが身を拷問にかけて処刑する行為でしかないとわたしには思われた。

とにかく萬子媛は寿蔵に入ったあと、水はお飲みになった可能性が高い。

毎日お経を唱え、水を飲んで、入寂のときまで……。

郷土史家・迎昭典氏が提供してくださった資料の中に『鹿島藩日記』からの抜粋があり、それには入寂を伝える様子が生々しく記されている。

鹿島藩日記抜粋  宝永二年(1705年)以下()内はすべて注書き

 閏四月十日

一今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之由、外記(岡村)へ、番助(田中)・石丸作左衛門より申来。

迎氏の解説によれば、祐徳院様(萬子媛)の入寂は、宝永2年(1705)閏4月10日(太陽暦にすれば宝永2年6月1日)のことだった。この年は4月が2回あり、閏4月の前に4月があったという。

奇しくも、宝永2年4月30日(太陽暦にすれば宝永2年5月22日)、萬子媛の唯一の小伝といえる『祐徳開山瑞顔大師行業記』を著した義理の息子・直條が急逝している。直條は元禄16年(1703)に幕府より公家衆接待役を命ぜられ、宝永元年(1704)には江戸城常盤橋守衛を命ぜられている。

迎氏は次のようにお書きになっている。

祐徳院様が亡くなられた閏四月十日当時、鹿島ではまだ直條公がすでに亡くなっておられることを知らなかった。知らせを受けたのは十三日後のことである。

萬福寺の和尚様はおっしゃった。「普明寺に、去年の夏にお経をあげに行ったが」

(あの物凄いところへ?)と、失礼ながら思ってしまった。江戸時代にはさぞ威容を誇ったであろう普明寺の背後が墓地になっているようだ。藪蚊が凄くて、そこへは行かなかった。

萬福寺の和尚様は、わたしが調査しているようなことに詳しいかたを何人か教えてくださった。そのうちのお一人のご著書は読んだことがあった。

が、「総合的に知っている人はいない。佐賀も殿さんが沢山、黄檗の寺院を作った。祐徳稲荷もそうじゃが」と和尚様。

「普明寺は、相当に苔むしているように見えました。綺麗になれば、一般人も行きやすくなると思いますけれど」と磊落な和尚様の雰囲気に甘えて、ついいってしまうと、「あんたが、あんたが人のため、世のため。自分がやるか、やらないかをいうことに価値がある」と和尚様。

「わたしは黄檗宗の僧侶として断食入定を遂げられた祐徳院様に魅せられ、黄檗宗について知りたいと思いました。いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」といった。

普明寺・法泉寺に電話したのは、田中保善『鹿島市真実の記録』(1990)に次のような記述があったからだった。

祐徳院と稲荷社は世間の信仰を集め、御霊験あらたかで有名になり参詣人も多く興盛になったが、明治を迎えて神仏混淆のお寺は明治政府の『神仏判然令』により神仏を分離して廃仏毀釈が実施されるようになった。ここでは仏像や仏具一切を普明寺に移して神社のみとした。普明寺では仏像仏具類は完備しており、普明寺の末寺の法泉寺に祐徳院の寺の物を全部移して現在大切に保管している。*6

祐徳博物館の職員は「祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」とおっしゃった。前述したように普明寺も法泉寺も同じ敷地内にあり、法泉寺は普明寺の子院なのだ。

ところが、普明寺・法泉寺に電話でお尋ねしたところでは、禅寺だった祐徳院の物は何一つないというお話だった。

わたしは祐徳博物館に展示されている萬子媛の御遺物を思い出した。それらも一旦は普明寺あるいは法泉寺に移された後、博物館に収められたのかもしれない。

廃仏毀釈後、はっきりしない部分が出てきたのか、話に食い違いがある。わたしは物哀しい気持ちになった。

さらに、「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」と普明寺・法泉寺のかたはおっしゃった。

次のオンライン論文にも、そのようなことが書かれている。

高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」
http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf

「他の大名家のお墓をきちんと調べていかなければなりませんが、夫婦が対になった墓所の配置は鍋島家の特徴的な墓の作り方といえるかもしれません」*7とも書かれている。

同じ正室であっても、先に嫁いだ正室だけが藩主と同じ墓地に眠る権利があったということのようだ。

そして、前掲論文の次のような記述に胸を打たれた。

普明寺の場合、菩提寺だったので非常に多くの子院が建てられています。当時の景観で言うと、ここから祐徳稲荷神社まで山伝いに子院がつながっていました。祐徳稲荷神社の前身も元々は祐徳院といって、普明寺の子院でした。*8

どんなに壮観だったことだろう!

 

祐徳稲荷神社で行われた『かしま伝承芸能フェスティバル』の模様を収めた動画がアップされていた。動画では「鹿島一声浮立」が披露されている。鹿島小唄、鹿島節と共に、盆踊りでお馴染みの曲である。知っている顔があった。貼りつけさせていただこう。この歌詞の中に「福は授かる 祐徳稲荷」とある。

前掲のおどり曲には、いずれにも祐徳稲荷神社が出てくる。サイト「鹿島おどり Blog」*9で、鹿島おどりのおどり曲である鹿島一声浮立、鹿島小唄、鹿島節の歌詞が紹介されている。《続きを読む》に転載させていただく。

どのおどり曲にも祐徳稲荷神社が出てくる。「鹿島小唄」では二番に出てくる。

二.
響く鈴の音 燃え立つつつじ
朱塗まぶしい 祐徳さまの
登る石段 はずかしうれし
願いかのうて 二人づれ
肥前鹿島は縁どころ

どこか哀愁を帯びた鹿島小唄がわたしは好きだが、この二番の歌詞には祐徳稲荷神社が「祐徳さま」という畏敬と親しみを帯びた呼び名で登場する。

願掛けて恋が叶ったらしい初々しい男女の姿が、祐徳稲荷神社を背景にして映像的に表現されている。

「鹿島節」の作詞を手がけたのは、童謡作詞家として有名な野口雨情。「鹿島節」では四番に祐徳稲荷神社が出てくる。

四.
運と福とを さづける神は ヤントコセ
アレヨ祐徳 イッチョ イッチョサ
アレヨ祐徳 サンサエ 稲荷さま ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

鹿島おどりで最も盛り上がりを見せる「鹿島一声浮立」では、二番に祐徳稲荷神社が出てくる。

二.
福は授かる 祐徳稲荷
海は有明 海苔かおる
踊れや さあ踊れ
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサヤッサ
一声浮立は よい踊りソレ よい踊りよい踊り
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサ

祐徳稲荷神社が地元で如何に親しまれてきたかが、こうした歌詞からも窺える。

 

鹿島おどり Blog<http://kashimaodori.blog72.fc2.com/>より転載。

……………………

鹿島小唄
作詞/服巻紫浪 作曲/草川京二

一.
春はうらうら 旭ヶ岡の
酔うた笑顔も 赤門あたり
松の翠に 夜ざくら映えて
街にゃネオンの 花も咲く
肥前鹿島は 花どころ

二.
響く鈴の音 燃え立つつつじ
朱塗まぶしい 祐徳さまの
登る石段 はずかしうれし
願いかのうて 二人づれ
肥前鹿島は縁どころ

三.
遠い浮立は あの娘の町か
つきの蟻尾山 見渡す限り
つづく稲田の 果から果へ
なぜに不知火 謎ばかり
肥前鹿島は 米どころ

四.
武雄嬉野 湯の香に昏れて
わたしゃ漁船 浜町泊り
鐘は蓮厳院か 誕生院か
今宵身にしむ 酔ここち
肥前鹿島は 酒どころ

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鹿島節
作詞/野口雨情 作曲/藤井清水 編曲/京極利則

一.
肥前多良岳 立つ白雲は ヤントコセ
アレヨ鹿島の イッチョ イッチョサ
アレヨ鹿島の サンサエ 雨となる ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

二.
昔しのばす 鹿島の城下 ヤントコセ
アレヨ大手の イッチョ イッチョサ
アレヨ大手の サンサエ 朱塗門 ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

三.
春の花見は 旭ヶ岡に ヤントコセ
アレヨ桜が イッチョ イッチョサ
アレヨ桜が サンサエ 五千本 ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

四.
運と福とを さづける神は ヤントコセ
アレヨ祐徳 イッチョ イッチョサ
アレヨ祐徳 サンサエ 稲荷さま ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

五.
蟻尾城跡 有明越しに ヤントコセ
アレヨ一目に イッチョ イッチョサ
アレヨ一目に サンサエ 肥後筑後 ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセ

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鹿島一声浮立
作詞/橋本野酔 作曲/市川昭介

一.
佐賀は葉がくれ 南をうけてヤッサヤッサヤッサヤッサ
瑞穂日本の 米どころ ササ

踊れや さあ踊れ
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサヤッサ
一声浮立は よい踊りソレ よい踊りよい踊り
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサ

二.
福は授かる 祐徳稲荷
海は有明 海苔かおる
※(繰り返し)

三.
古き歴史を 新たな町に
生かす浮立の 底力
※(繰り返し)

四.
山の幸やら 海の幸
鹿島供日の 一声浮立
※(繰り返し)

*1:ウィキペディアの執筆者. “隠元隆き”. ウィキペディア日本語版. 2016-11-27. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%9A%A0%E5%85%83%E9%9A%86%E3%81%8D&oldid=62088404, (参照 2016-11-27).

*2:ウィキペディアの執筆者. “普茶料理”. ウィキペディア日本語版. 2017-07-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86&oldid=64892618, (参照 2017-07-24).

*3:ウィキペディアの執筆者. “普茶料理”. ウィキペディア日本語版. 2017-07-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86&oldid=64892618, (参照 2017-07-24).

*4:祐徳稲荷神社「岩本社」<https://www.yutokusan.jp/sanpai/iwamoto.php>(2017/08/06アクセス)

*5:ウィキペディアの執筆者. “禁葷食”. ウィキペディア日本語版. 2017-04-25. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A6%81%E8%91%B7%E9%A3%9F&oldid=63882391, (参照 2017-04-25).

*6:田中,1990,pp.151-152

*7:高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

*8:高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

*9:<http://kashimaodori.blog72.fc2.com/>(2017/08/01アクセス)