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94 祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛入寂後に届いた鍋島直條の訃報:『鹿島藩日記 第二巻』

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Roman GracによるPixabayからの画像

花山院萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。
祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。
萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。
1662年、37歳で佐賀藩支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。
1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。
朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。法号、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。

 

飛脚が東奔西走

三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)によると、萬子媛*1の入寂後、すぐに葬礼の段取りがつけられると同時に、あちこちへ訃報が届けられた。細かく記されている。

訃報は直ちに松之助様、お幾様(鍋島直條の娘で萬子媛を慕った義理の孫*2)、泉州様(鍋島直朝、萬子媛の夫)、京都花山院(萬子媛の実家)、江戸へ……

こうした記述と交錯するように、鍋島直條へのお見舞いが蓮池家から届けられたリしている(実際にはこのとき既に、江戸で直條は亡くなっている)。

さらに訃報を届けるため、飛脚が遣わされた。信州様(鍋島綱茂。佐賀藩の第三代藩主。光茂の長男。光茂は1700年に亡くなっていた)、その他御親戚方。彦山僧正(萬子媛の姉が嫁いでいる)。

萬子媛に引導を授けるために格峯(鍋島直孝。断橋和尚)の指示で請待された僧の名が「拙巌」と記されており、この人物がわからなくて躓いた。悶々としてリサーチするも、結局わからないままなのだが、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)以外に考えられない。まぎらわしいことに、拙巌[せつがん]という僧は存在するが、浄土真宗本願寺だし、1791-1860 で時代が違う。

鹿島四代藩主・鍋島直條とその継母に当る萬子媛の死亡時期が近かったうえに、当時の交通事情もあって連絡が遅れ、萬子媛の訃報をあちこちに届け、葬礼準備にとりかかった矢先、先月直條が江戸で死去したとの知らせが届く。届くのに、13日もかかっている。

今であれば、メール、電報、電話で瞬時に伝わる情報も、当時は飛脚頼み。二人の死が重なって、日記には飛脚の文字が頻出する。飛脚が東奔西走する。

鍋島直條の死

直條の死が、宝永二年四月三十日(1705年5月22日)。この年は翌月が閏四月であって、四月が2回あるのだ。萬子媛が死去したのはその閏四月で、宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)。郷土史家の迎昭典氏がこのあたりのまぎらわしい前後関係を整理してくださっているので、ありがたい。

直條の遺骸を江戸から鹿島まで運ぶのも大変だった様子が、日記から伝わってくる。遺骸はまず、江戸から「大坂」まで運ばれた。

御遺骸去月廿七日大坂御着、同廿九日彼地御出棺、*3

これは五月六日の日記であるから、つまり直條の遺骸は閏四月二十七日(1705年6月18日)大坂に到着し、二十九日(1705年6月20日)その地を出棺した。

日記には、人、馬、船の手配(勿論その手配のための連絡には飛脚が欠かせない)、銀などによる金銭の遣り取りなども記されている。

五月十四日(1705年7月4日)の日記には直條の遺骸は去十二日(1705年7月2日)下関に着き、十三日に小倉の海を渡って黒崎に泊まることになるが、潮時次第で遅速が当然あるだろうと記されている。「次馬35疋、人足30人、駕3挺」。駕は乗り物。

小倉より飛脚が到着し、小倉の海を渡るのに適した船がなく、十三日は小倉に留まるといってきたので、花木庭へお知らせしたとある。花木庭は、萬子媛の夫で鹿島三代藩主・鍋島直朝の隠棲の地。

同日、盗物である材木(樛、樫)を売って一儲けしようとした者達のこと。また傷害事件に関する記録があり、斎藤伝右衛門とその女房が下人三助を斧で打擲(殴った)。そのときの傷が原因で三助は後日、相果てた(死んだ)……

いずれも岩松殿(鍋島直堅)家来が起こした事件である。鍋島直堅は直條が卒したため、将軍綱吉に謁見し、家督相続して五代藩主となるが、このとき、11歳。

同日、晩の記録には、小倉より飛脚が到着したとあり、遺骸が下関に到着。海を渡って、「大里御泊十三日、飯塚御泊十四日、田代御泊十五日、牛津御泊十六日、加嶋御着之段、外記へ舎人より*4申越候、依之、」と文章は続く。

五月十五日(1705年7月5日)の日記には、今日御遺骸が牛津に到着するので、御迎えのため吉田官兵衛・松永藤次郎が牛津に向かった。一方、「今日祐徳院様御三十五日」とあり、御供えする野菜、料理のことなどが書かれている。

現代でも和食(精進料理)に使われている食材、調味料が色々と書かれていて、読んでいて全く違和感がない。当時からこんなに色々とあったのかと驚かされる。

それにしても、直條の遺骸が鹿島に届くまでにずいぶん日数がかかっているけれど、防腐処理なんかは施されていたのだろうか。五月十六日になってもまだ、牛津を御出棺、雨が降り続いているために「塩田川水出、中川・山田川も水出申候、」などと書かれていて、続く記述を読むと、これは洪水状態と考えていいだろう。人が大勢出て、対処している。

翌五月十七日になってやっと、「昨夜中雨止申候付而、塩田川水減、御尊躰船より*5御渡被成候、」とあったので、読んでいてホッとし、思わず「直條公、御帰りなさい」とつぶやいてしまった。

鹿島藩日記』に記された赤穂事件

話が前後するが、赤穂事件の発端となった事件及び赤穂浪士討ち入り後の処罰について、リアルタイムな記述が『鹿島藩日記 第二巻』にある。

赤穂事件の発端となった事件とは、元禄十四年三月十四日 (1701年4月21日)、浅野内匠頭長矩(赤穂城主)が江戸城中で吉良上野介義央(高家)に刃傷に及んだ事件である。

  三月十四日
昼過時分、水野六郎左衛門より*6愛野太郎右衛門へ*7書通、今日於 御城、浅野内匠(長矩)殿御喧嘩*8、御相手吉良上野介(義央)殿之様二相知レ候、(後略)*9

11行に渡るこの記述について、編纂者の三好氏は解説に次のようにお書きになっている。

佐嘉本藩の鍋島家と米沢の上杉家とは、初代勝茂・二代光茂と重[かさ]なる婚姻関係にあったので、その縁を通じて鹿島鍋島家も上杉家とは、従って吉良家とも親交があったようである。元禄十一年の『御在府日記』によると、鹿島藩江戸藩邸では、吉良上野介の希望によって、二三度にわたって有田焼の水指や香爐などを贈っている。元禄十四年の事件に当って鹿島は微妙な立場にあったといえよう。

上杉家は吉良家と濃い血縁関係にあった。

ところで、直條の遺骸が鹿島に届くまでに洪水があったようだと書いたが、元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)の赤穂浪士の討ち入りが起きる前、十月三日の日記にも、肥前佐賀領大風雨とあり、これは台風だろうか。被害状況が細かく記されている。

田畠18万1,000石が荒れた。倒家数2万9,045軒。崩塀3,800間余。
倒木3万4,850本。破船29艘。
死人62人のうち男57人、女5人。
死馬8疋。

*1:鹿島藩日記 第二巻』では一貫して祐徳院様と記されている。

*2:エッセー 89祐徳稲荷神社参詣記 (9)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」参照

*3:三好編,1979,p.430

*4:※「より」は合略仮名が使われている。

*5:※「より」は合略仮名が使われている。

*6:※「より」は合略仮名が使われている。

*7:※「へ」は「え」の変体仮名

*8:※「嘩」はくちへんに花。

*9:三好編,1979,p.2