マダムNの神秘主義的エッセー

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115 祐徳稲荷神社参詣記 (16)萬子媛の呼び名。初婚だったのか、再婚だったのか。直朝公の愛。

Olga KriklivaによるPixabayからの画像

 

萬子媛の呼び名を考察する

エッセー 88祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)」の註5で、わたしは次のように書いた。

2018年10月4日に祐徳博物館を見学した際、文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとの解説があった。痘瘡は、痘瘡ウイルスの感染によって起こる悪性の伝染病で、天然痘、疱瘡[ほうそう]ともいわれる。

天然痘は紀元前より、伝染力が非常に強く死に至る疫病 として人々から恐れられていた。また、治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕が残るため、江戸時代には『美目定めの病』と言われ、忌み嫌われていたとの記録がある。天然痘ワクチンの接種、すなわち種痘の普及によりその発生数は減少し、WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言を行った。以降これまでに世界中で天然痘患者の発生はない」国立感染症研究所ホームページ< https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/445-smallpox-intro.html >(2018年11月7日アクセス)

2018年10月4日に見学した祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかった。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないかと思われた。

萬子媛の肖像画の前に行くと、微笑まれているように見えたこともあったそのお顔が、このときは厳めしく見えた。エッセー 71祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」で、肖像画に見る萬子媛の容貌と表情について書いている。

僧侶姿の萬子媛の肖像画をじっくり見ることができた。郷土史家からいただいた資料の中にこの萬子媛の肖像画の写真のコピーがあり、嬉しくてよく眺めていた。
現物はずっと大きく、色合いもこまやかなため、わたしの中で萬子媛の容貌が修正された。厳めしい印象だったのが、もっと軽やかな、優しい、明るい表情に見えた。
わたしが思い描くイメージにぴったりだ。貼りついたように肖像画の前を動くことができなかった。

やはり、若いころは相当な美人だったのではないだろうか。老境に入ってさえ、色白で卵形のお顔に鼻筋が通り、如何にも聡明そうな目は高齢のせいで形がはっきりしないが、奥二重か二重だろう。ほどよく小さめの口、薄めの唇、凜とした口元。

萬子媛は1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸は10歳で夭死する。

また1687年、式部朝清も21歳という若さで亡くなってしまう。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号したのであった。このとき、63歳である。

元服以前の10歳で亡くなった文丸の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏からいただいたメールに、直朝と側室の間に――文丸と同年に――生まれた中将が同年の1673年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文丸と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文丸に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあった――と、あるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代天然痘の語は1830年大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。……(略)……大まかな症状と経過は次のとおりである。

  • 飛沫感染接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
  • 40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
  • 発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
  • 7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
  • 2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
  • 治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。*1

長く病床にあったという文丸は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文丸は聡明な子供だったようだ。

文丸は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文丸はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

郷土史家の迎昭典氏からいただいたメールには、文丸が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文丸の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父、直朝の船に同船した。

人形は、文丸が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文丸の祖父)の没年はウィキペディアに――中将、文丸と同年の――延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない。*2

文丸は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文丸が前年上京したときに祖父から天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文丸の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文丸の死の知らせが花山院定好の体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは如何ばかりであっただろう。

ところで、文丸に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということを。

というのも、郷土史家の迎昭典氏からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』、『鹿島藩日記 第二巻』、『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。エッセー 88祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)」を参照していただきたい。

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがあった(沢山あって全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

ところで、ecollege setagaya(21世紀アジア学部 佐野実)「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」を視聴しているときだった。

youtu.be

動画では、日本黄檗宗の祖となった明末清初の禅宗の僧――隠元隆琦が日本にもたらした文化的影響について語られており、よい復習となったのだが、この動画を視聴しているとき、隠元と切り離せない萬福寺の中の一文字「萬」に目が釘付けになってしまった。

萬媛と呼ばれていたであろう一時期がおありだったに違いない萬子媛。

「萬」という呼び名の由来を知りたいと思いながら、ずっとわからなかった。

いや、これも憶測にすぎないのだが、もしかしたら、この呼び名は萬子媛が黄檗宗に関心を持ち、秘かに仏門に入ることを考え始められたころに、萬福寺から「萬」という一文字をとって付けられた名ではないだろうか。

 

マダムN 2018年10月12日 (金) 18:24 

 

初婚だったのか、再婚だったのか?

歴史小説の第二稿が頓挫してしまった。ちなみに、第一稿が2015年12月の脱稿だった。

第二稿が全く進まなかったのは、萬子媛についてわからないことが多く、伝承と史実が異なると思える部分もあって(一致している可能性もないではない)、調べるのに時間がかかり、調べてもわからなかったりもして、創作意欲が低下していたということがあった。

しかし、現地取材したり、取材に協力していただいた専門家の方々のお陰でわかったことも多い。藩日記を読んだ収穫も大きかった。

そのような中で、まだわからないことは、37歳で鍋島直朝に嫁いだ萬子媛は初婚だったのか、再婚だったのかということである。

専門家の方々も、第一稿を読んでくださった方々も、閲覧した複数のサイトでも、わたしの夫と息子も皆が、萬子媛の年齢から考えて再婚だった――という憶測をなさる。

小説というフィクションを書くのだから、どう書こうと自由なのだが、ここが決まらないために悶々としていたが、決めた。初婚だということに。娘だけが、わたしと同じ憶測をする。

わたしがなぜそう考えるかというと、大名職を引退した夫が存命であるにも拘わらず(恐らく仲も悪くなかった)、おなかを痛めた子のうちの次男までもが21歳で早逝したとき、萬子媛は剃髪なさった。

そのとき、義理の息子である断橋和尚に吐露した率直な気持ちが、断橋の弟で大名となった直條の著と考えられる萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」*3に書かれている。

かくも自分の気持ちに正直で、ここはというときに思い切ったこともなさる萬子媛。一方では、情の深さ、細やかさと優れた教養で多くの人々を惹きつけた萬子媛であった。

いわば全力投球型の萬子媛が再婚だったとは、考えにくいのだ。

初婚で結婚した相手に不満があれば、積極的に打開策を考えて実行なさるだろうし(離婚という匙投げの手段ではなく)、夫と死別したのであれば、萬子媛の性格からして、その地で出家なさったのではないだろうか。

花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

もし再婚であったなら、萬子媛は初婚のときも授かったのか?

結婚するたびにお稲荷さんを持たされて送り出されるというのも、不自然な気がする。

なぜなら、そのお稲荷さんは、ただのお稲荷さんというわけではない。朝廷の勅願所であった伏見稲荷大神の分霊なのだ。

萬子媛は二歳で、母方の祖母である清子内親王後陽成天皇の第三皇女)の養女となっている。清子内親王について、萬子媛との関係を中心にざっとまとめてみる。

「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」*4の解説に、次のような解説がある。

清子内親王後陽成天皇の第三皇女)
1593-1675* 
江戸時代前期,後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇女。
文禄(ぶんろく)2年10月23日生まれ。母は女御藤原前子(さきこ)(中和門院)。慶長6年内親王となり,9年鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ)にとつぐ。信尚没後,大鑑院と号した。延宝2年12月9日死去。82歳。

清子内親王は28歳で、夫・鷹司信尚と死別して大鑑院と号した。
大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とした。
37歳になる萬子媛を1662年に嫁に出したとき、大鑑院は69歳。
曾孫の文丸が生まれた1664年(萬子媛39歳)、大鑑院は71歳。
曾孫の朝清が生まれた1667年(萬子媛42歳)、大鑑院は74歳。
1673年に文丸が10歳で死去したとき、大鑑院は80歳。
未亡人であった清子内親王は、なぜ萬子媛を養女としたのだろうか?

萬子媛には同じ母から生まれた兄弟姉妹がいる。サイト「公卿類別譜(公家の歴史)」より引用させていただく。

忠弘
定教(母同。忠広嗣) 
円利(※家譜による。母同。入叢林為出家)
定誠(母同。定教嗣) 
堯円(母同。専修寺十六代。近衛尚嗣猶子) 
女子(母同。号貞寿院実全妙操〔高千穂家譜〕。   
 元禄10年9月18日(1697年11月1日)卒〔高千穂家譜〕。   
 ※家譜は豊前国英彦山座主亮有室とあるが、愛宕家譜・知譜拙記によれば、愛宕通福の実父は亮有の父有清〔岩倉具堯二男〕で、母は定好の娘とある)
女子(母同。鍋嶌和泉守室) 
女子(母同。惣〔*系図纂要作総〕持院尼。智山周旭)*5

鍋嶌和泉守室というのが萬子媛のことで、妹がいる。この妹といくつ違いなのかわからないが、母(没年不明)が出産後に亡くなったことで、そのときまだ二歳だった萬子媛を祖母が引き取ったということが考えられる。

祖母との暮らしは、抹香臭い(?)、宗教色の濃いものだったのではないだろうか。

萬子媛の前掲小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」*6に、「大師、いまだ笄[こうがい](かんざしで髪を束ねる)せざるより、早くも三宝[さんぽう]の敬すべきを知り、香華を仏に供[そな]うるを以[もっ]て常の業と為[な]し、帰に泪[およ]ぶ」*7とあることから考えても、萬子媛は成人以前に早くも仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる三つの宝物を敬うべきことを知り、仏前に香と花を供えることを日課とし、仏教に帰依していた。

祖母と一緒に、清く正しく美しくお暮しになっていたことは間違いない。

そして、それは幼いころからのものであったために、萬子媛にとってはごく自然な、快いものでさえあったのではないだろうか。父の花山院定好はもとより祖母も、萬子媛の良縁を心底願っていたに違いない。

わたしに憶測できる、萬子媛が晩婚になった理由はこのことしかない。格式の高さと貧乏である。

江戸時代、公家は様々な制約の中で、貧乏生活を余儀なくされていた。

萬子媛の実家である花山院家は750石。養女に行った鷹司家五摂家*8の一つで、最高貴族といえる家柄だが、鷹司家は1500石と小大名より少ない(10万石以上を大大名、5万石以上を中大名、それ以下の大名を小大名といった)。

萬子媛が後妻となった、その小大名の一つである肥前鹿島藩は2万石である。

格式の高い家の生まれの明眸、才知ともに備わった萬子媛が年増となり、当時の基準での嫁としての商品価値が下がって初めて、小大名が近寄れるくらいの雰囲気が醸成されたのではないだろうか。

適齢期に大大名、中大名にやるには、貧乏が邪魔をした。

萬子媛が父から授かった伏見稲荷大神の分霊こそ、花山院家屈指のお宝といってよいものだったかもしれない。

村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995年)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作で、それによれば、絵巻が作られたのは有誉が座主だったときだった。

この著作には有誉の父が亮有、母は花山院定好の娘だと書かれている(亮有の父・有清の室という説もある)。いずれにしても、ここで出てくる花山院定好の娘というのは、萬子媛の姉だろう。交際があったらしく、英彦山からのお使いは時々、鹿島藩日記に出てくる。

有清の三男で亮有の弟の通福は中院通純の猶子となっており、中院通純の娘・甘媛は鍋島光茂の継室(後妻)となっている。

このころ、英彦山は「英彦山三千 八百坊」(3,000人の衆徒と坊舎が800を数えた)と謳われるほど栄えていたというが、何しろ険しい山の中である。京都住まいの貴族である花山院定好が、本心から嫁にやりたいと思うようなところだったのだろうか。

萬子媛の妹は、臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。

定好の娘達の落ち着き先をみていくと、下種の勘繰りかもしれないが、花山院定好のつらい胸のうちが読めるような気がしてくる。

心血を注いでの嫁入り支度、万感胸に迫りつつ娘を送り出した父の思いが萬子媛に伝わらないはずはない。こんなことを二度も三度も繰り返すだけの財力も気力も父にはないことを、聡明な萬子媛はわかりすぎるほどわかっていたに違いない。

こうしたことを総合して考えてみると、萬子媛は初婚だったと思えてしまうのだ。


マダムN 2018年10月31日 (水) 16:15

 

直朝公の愛

今は京都御苑となっている、かつては200もの公家屋敷が立ち並んでいた町で、萬子媛はどのような暮らしを送っておられたのだろう? 

萬子媛は二歳で、祖母である清子内親王の養女となり(萬子媛の母が亡くなったためではないかとわたしは想像している)、鷹司家でお暮しになっていたと思われる。清子内親王鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号していた。

養子に行ったといっても、同じ公家町内のこと。萬子媛は花山院家にちょくちょく行かれていたのではないだろうか。

鹿島鍋島家に嫁いだ後も、花山院家との親密な関係が続いていたことは鹿島藩日記からも窺える。

ところで、「直朝公」(普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載)*9を読むと、直朝公が元禄四年(1691)辛未春正月二十一日、70歳のよろこびの礼を行い、申楽[さるがく](能楽)を花頂山に奏したとあり、「毎歳今日(この日)に必ず申楽[さるがく]有るは侯の誕辰(誕生日)を以[もっ]ての故[ゆえ]なり」*10と記されている。

ならば、同じ『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』*11所収「断橋和尚年譜」に、断橋和尚が54歳の宝永二年乙酉(1705)に記されている、次の箇所はどうだろう?

猛春十八日、祐徳院殿瑞顔大師の耋齢(八十歳)の誕を祝するの序略に云う、……(以下略)……*12

萬子媛80歳のお祝いが誕生日当日に行われたとは限らないが、直朝公は自分の誕生日に拘りがあったようだから、その直朝公が妻の80歳の誕生日に贈り物をしたことが三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』*13に記されているとなると、妻の誕生日にも拘ったのではないか……と思いたくなるではないか。

つまり、その猛春十八日が萬子媛のお誕生日ではないかと。猛春には春の初め、旧暦1月という意味があるが、『鹿島藩日記 第二巻』宝永二年乙酉正月十八日の日記に次のように記されている。

一、今日、祐徳院様八十之御祝誕ニ付而、従 殿様為御祝儀、御野菜被進候、左ニ書載、
   一、午房       一、山芋
   一、昆布       一、椎茸
   一、田鴈       一、蓮根
       右一折二〆
   一、蜜柑一折
 右、御使者木庭彦兵衛相勤、介副池田新内、*14

何というささやかな、心づくしだろう! 修行に勤しむ妻に合わせた贈り物なのだ。直朝公から贈られた食材は調理され、萬子媛の80歳を祝う食卓を飾ったに違いない。

エッセー 89祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」に書いたように、この年の閏四月十日、萬子媛は危篤となり、その日、直朝公から付き添う人々におこわと煮しめが届けられている。

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。……(略)……同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

直朝公は家を出て修行三昧だった妻を全身全霊で愛し、気遣っていられたのではないだろうか。いやはや、ここまで思われちゃ、断食入定なんてできないだろうなあ……とわたしは思うのである。

萬子媛の仮ホロスコープを作成してみた。フィクションである小説の中の萬子媛のイメージを膨らませるために。これは、わたしの勝手な憶測にすぎない。寛永二年一月十八日は、西暦に変換すると、1625年2月24日。

 

マダムN 2019年3月13日 (水) 19:41

*1:天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

*2:花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

*3:肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収

*4:<https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/>(2018年10月25日アクセス)

*5:花山院家(清華家)-公卿類別譜(公家の歴史)<http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm>(2018年10月25日アクセス)

*6:肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収

*7:井上・伊香賀・高橋編,2016,p.72

*8:藤原北家から出た近衛家九条家鷹司家一条家二条家の五家のことをいい、鎌倉時代半ばより代々摂政・関白を務めた。

*9:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収

*10:井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92

*11:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016

*12:井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92

*13:祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979

*14:井上・伊香賀・高橋編,2016,pp.343-344