マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月

yamabonによるPixabayからの画像

 

思想界を二分した儒仏二道(2014年1月13日、23日)

わたしは日本史が嫌いだった。それは江戸以降の歴史が何となく嫌いだったからだ。匂いが嫌といったらいいのか。

特に江戸儒学の匂い。知りもしないのに、アレルギー反応が起きてしまっていた。あの人工臭がたまらないと感じられた。

しかしながら、小泉政権による構造改革以降、日本がみっともなく崩れてくると、わたしの目には崩れゆく日本の背後に江戸の姿が蜃気楼のように見え出した。

それでも、江戸時代を知ることを拒み続けていたのだが、その時代を生きた萬子媛にアプローチしようと思えば、江戸期の骨格ともいえる江戸儒学朱子学派)を知らないわけにはいかない。

朱子学派と林家[りんけ]は切り離せない。林家とは、林羅山を祖とする儒学者朱子学者の家系をいう。

そして、萬子媛の義理の息子直條は、林家の三代林鳳岡と親交があった。

一方の萬子媛は、清新の気に満ちていたころの黄檗禅に帰依した。黄檗禅は西方浄土的かつ密教的であったという。

開祖隠元の日本渡来は1654年のことで、仏教界への影響は大きかった。ちなみに木魚は黄檗禅から広がったものだそうだ。

エッセー 115 で紹介させていただいた「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」というタイトルの動画によると、明末清初の動乱期に中国から文化人や文物が流出したが、当時鎖国体制をとっていた江戸幕府はそれを歓迎したのである。

「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」
2021/01/19
ecollege setagaya(21世紀アジア学部 佐野 実)
https://youtu.be/MDQxEKgiLEY

長崎が受け入れの窓口となった。中国人社会が形成され、それが長崎中華街の元祖となったということである。

高僧の誉れ高い隠元はこのような時期に、江戸時代初期の日本に招かれた。当時、長崎には中国人が住職を務めるお寺がいくつもあったという。隠元は30名の弟子と共に来日した。

隠元が長崎から江戸に出たことで、当時最先端だった中国文化文物が日本中に拡散した。

大きいテーブルを大勢で囲むスタイルが隠元から伝わり、ちゃぶ台となる。それまで日本では箱膳で、食器を洗う習慣がなく、皆でテーブルを囲むという習慣も隠元が持ってきたのだった。

普茶料理卓袱料理)、煎茶文化と茶店が誕生した(それまではお茶というと高級品で薬っぽいイメージがあり、日常的に嗜む習慣はなかった)。

隠元ら中国の僧侶らが着ていた僧侶用の服が歌舞伎に取り入れられ、隠元後水尾法皇から下賜された袖を感激して頭に被ったことから隠元頭巾(お高祖頭巾)が流行った。

明朝時代に中国でできた写経用の字体が明朝体、フォーマットが原稿用紙として流行った。

美術面でも大きな影響を与えた。写実的でカラフルな表現。建築面ではじゃばら天井、勾欄[こうらん]、円窓など。……

ところで、江戸時代、女性は文学には参加しなかったのだろうかとずっと不審に思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

門玲子『江戸女流文学の発見』(藤原書店、新版2006)では、平安女流文学の伝統的文体を身につけた上に中国の論語、中庸、文選、史記などから縦横に引用できるだけの教養を備えた『松陰日記』の著者、正親町[おおぎまち]町子について、まる一章が割かれている。町子は公家の娘である。

萬子媛も公家に生まれた才色兼備の女性であり、降嫁した地で別格の人として敬われ、慕われていたことから考えると、正親町町子のような高い教養を身につけていた可能性が高い。

萬子媛は1662年、37歳で佐賀藩支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)は10歳で没。1687年、式部朝清が21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1688年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳だった。

萬子媛の慟哭はわかるにしても、夫を置いての出家は特殊なことに思われたし、断食入定という伝承は壮絶に感じられたが、黄檗禅に密教的要素があったことを考えると、断食入定もありえたことといえるのかもしれない(※その後の調査により、萬子媛は病死された可能性の高いことがわかった。エッセー89祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」を参照されたい)。

前掲書『江戸女流文学の発見』には、了然尼[りょうねんに](1646 - 1711)という、これまた壮絶な歌人であり尼僧であった人物が登場する。

「主要人物注」*1には、了然尼について、「はじめ東福院に仕え、のち儒医松田晩翠に嫁いだ。夫に妾を置いて家を出た。美貌のため出家を拒まれたので、顔を焼いて出家をとげ、ふたつの寺の住職をつとめた。漢詩、和歌、書をよくした」とある。

夫に妾を置いて出家というのは、あっぱれというべきか、夫を下半身のみの生き物と独断する絶望的解釈というべきか。

ここでわたしは、萬子媛が鍋島直朝との子(文丸)を初めて出産した同じ寛文4年(1664)に、側室もまた男の子を出産したことを思い出した。側室という存在が跡継ぎを絶やさないための工夫であることは承知済みであったとしても、側室や妾といった存在が女性の側[がわ]に何の憂いももたらさないとは考えられない。

了然尼が「美貌のため出家を拒まれた」というのはよくわからないが、その障害を乗り越えるために顔を焼いた――という行為には言葉をなくす。いずれにしても、その頃の女性の扱われ方の一端を見る思いがする。

諸説ある江戸時代の区分法のうち、将軍で分ける以下の説をとりあえず採用してみたが、これに関しては江戸時代の勉強後に再検討したい。

  • 前期 1603年 - 1709年
    江戸幕府初代将軍・家康から第5代将軍・綱吉まで。
  • 中期 1709年 - 1786年
    第6代将軍・家宣が将軍から第10代将軍・家治まで。
  • 後期 1787年 - 1867年
    第11代将軍・家斉から第15代将軍・慶喜まで。

萬子媛は1625年に生まれ、1705年閏4月10日に没した。了然尼は1646年に生まれ、1711年に没しているから、時代的には重なる。

前掲区分で見ると、二人が生きた時代は江戸前期に当たる。幕藩体制が確立し、江戸文化が開花しようとする頃である。

3代将軍家光の時代まで武断政治が行われたが、家光が死去した年に由井正雪ら浪人による慶安事件が起きたのをきっかけとして、幕政方針は4代将軍家綱の時代から文治政治への転換を図った。

この了然尼と、井上通女(1660 - 1738)の間に起きた論争について触れられた箇所は興味深いので、以下に引用させていただく。井上通女は『処女賦』『深闇記』を著した。

朱子学を深く学んでいる通女にむかって、了然尼があなたは現世の学問ばかりに熱心であるが、来世のことは気になりませんか、彼岸の浄土に済度してもらう菩薩の舟を求めませんか、と詰問した。……(略)……了然尼の、人生の根本に触れるこの問いにたいして通女は、生きがいを持たない人はこの世を憂き世と思い、尼の乗る救いの舟を慕わしく思うのでしょう、私はこの世をいかに生きるかということで充実しています、という歌で正面から切り返したのであった。
 当時の思想界を二分する儒仏二道の、女性によるドラマチックな対決である。通女の思想が付焼刃ではなく、実践を重んじる朱子学の本道をいくものであったことをしめしている。*2

ここを読んで、わたしは戦後日本人は、無意識的に先祖返りして江戸儒教の精神に生きているのかもしれないと思った。

GHQの洗脳と資本主義とマルキシズムだけでは説明のつかない現世主義があると怪訝に思ってきたのだった。江戸時代は長かった。日本人の骨の髄まで染み込んだものがあるに違いない。

萬子媛の義理の息子の一人は黄檗宗の僧侶に、もう一人は大名になって江戸儒学の家系と親交を深めた。「当時の思想界を二分する儒仏二道」という言葉を形にしたような義理の息子たちの選択である。

その義理の息子の兄の方は萬子媛が出家するにあたっての導師役を務め、弟の方はそのような萬子媛のことを「祐徳開山瑞顔大師行業記」という小伝に書き残したのであった。

マダムNの覚書 2014年1月13日 (月) 10:51、マダムNの覚書 2014年1月23日 (木) 05:36 


能の五番立(2021年11月7日) 

「蔵出し名舞台 名人の芸で観る能の五番立」『にっぽんの芸能』(NHK)――初回放送日: 2021年8月27日――を視聴した。

『にっぽんの芸能』の能を採り上げた回は勉強になるので、よく視聴しているのだが、この回は録画したまま未視聴だった。もっと早く視聴しておけばよかったと思った次第であった。能の五番立の解説がとてもわかりやすかった。ノートしておこう。

能の五番立

  • 神[しん]
    天下泰平、国土安穏[あんのん]を祈り祝う神の姿を描く。「高砂」「鶴亀(月宮殿)」等。
  • 男[なん]
    主に武将が死後、修羅道という地獄で苦しむ様子を描く。「清経」「実盛」等
  • 女[にょ]
    多くは女性を主人公とした、美しく幻想的な能。「羽衣」「熊野(湯谷)」等。
  • 狂[きょう]
    心乱れた人々や怨霊、異国のものを描く。「隅田川(角田川)」「葵の上」等。
  • 鬼[き]
    鬼や獅子、天狗などが登場する華やかなフィナーレ。「石橋[しゃっきょう]」「大江山」等。

江戸時代、能は武家の式楽(公式芸能)と定められていた。萬子媛の夫であった鍋島直朝公が能を嗜まれた背景として、こうした幕府の方針があり、加えて萬子媛の影響もあったのではないかとわたしは見ている。

先月、『多田富雄新作全集』が3,000円台で2点出ていた。新品もあるが、9,240円もする。図書館から度々借りていたので、できれば入手したいと思っていた。中古品だと、汚れていないか心配になる。安い値段だとその心配も強まる。くずくずしているうちに安いほうは売り切れてしまった。

3,300円の本が残っていた。汚れている箇所が写真に撮られ、表示されていた。箱入りの本で、汚れているのは箱のようだった。中身は無事なのだろうか? 多田氏の作品の内容にはやや疑問があるのだが、とても勉強になる本であることは間違いない。今後、ここまで安い中古品が出るとは限らない。注文した。

多田富雄著、笠井賢一編『多田富雄新作能全集』(藤原書店 、2012)
多田富雄氏の三回忌を記念して上梓されたもので、 「現代的課題に斬り込んだ全作品を集大成」したという貴重な一冊である。
多田氏は免疫学の世界的権威として活躍する一方では、新作能の創作に精力的に取り組まれた。

届いた本は、確かに箱の一箇所が汚れていたが、気になる汚れかたではなかった。中身は新品同然だった。注文カードが挟まれたままで、栞紐が使われたことのないまま二つ折りになって挟まっていた。藤原書店の小冊子「機」も挟まっていた。

嬉しかった。本が汚くなっていると、せっかく購入しても放置状態になってしまうことがあるのだ。図書館から借りる本はありがたいことに、新品同然のものばかり。たまに大衆受けするタイプの本を借りると、あまりの汚さに愕然となる。

多田氏の能作品を再読したが、内容にはやはり疑問が残った。エッセー 111祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い」の目次 3「新作能を読んだ感想」-3「多田富雄新作能全集」を参照されたい。 

だが、11編の能作品には創作ノート、構成、あらすじなど付いていて、とても勉強になるのである。海外公演のための英訳詞章集も付いているではないか。

そういえば、イェーツが能の影響を受けた書いた一幕物詩劇「鷹の井戸」が青空文庫で読めたので、印刷して読んだ。独特の雰囲気は出ているが、内容的には痩せている。

マダムNの覚書 2021年11月 7日 (日) 19:48


天上界的な美を表現することの難しさ(2022年1月3日)

ノート① では田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面を書いた。

年末に考えていたのは、故郷の名を記した醤油樽に縋り付いているワキ(田中軍医をモデルとした人物)に萬子媛が出現する場面だった。

これに先立つ出来事として、ワキが前ジテに船中で出逢う(ワキの乗る江尻丸という貨物船は魚雷にやられて爆発する運命にある)。そのときの萬子媛は生前の老尼僧の姿で、気高くは見えても普通の人としての姿である。

それに対して、後ジテとしてワキに出現する萬子媛は女神としての神々しく若々しい姿だ。かといって、それは人を脅かす異形の姿ではない。

ここをどう表現するかで迷っているうちに年末年始の慌ただしさにどっぷり漬かってしまい、中断してしまっていた。

生死の海に漂ひて、残り少しと身を思ふ際[きは]に、あら、きらきらしき女性[にょしゃう]一人[いちにん]さしぐみに現れ給ふは、如何なる御方にてましますぞ。

芹生公男『現代語から古語を引く辞典』(三省堂、2018)には、「美しい」を意味する古語には沢山あるのだが、これはどうだろうと古語辞典を引いてみると、わたしのイメージとはずれがあったり、現代語とのイメージ的乖離があったりで、選択に迷う。

「きらきらし」には、

    きらきらと輝いている。
    端正である。(容姿が)整って美しい。
    堂々として威厳がある。
    きわだっている。

といった意味がある(宮腰賢・石井正巳・小田勝『全訳古語辞典』旺文社、第五版小型版2018)。

後ジテの萬子媛は文字通り、きらきらと輝き、美しく、堂々として威厳があり、際立っておられるのだからこの古語でいい気もするが……まだ迷っている。

マダムNの覚書、2022年1月 3日 (月) 02:34


謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

謡曲集一』を見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

しかし、昔話の『羽衣』のほうは、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になってくる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を借りてしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。鈴木啓吾氏は観世流シテ方能楽師だそうである。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』では、漁夫白龍(ワキ)が松に美しい衣のかかっているのを見つけ、持ち帰ろうとする。それは天人の衣であった。白龍が衣を返さないので、天人(シテ)は嘆き悲しむ。そのあわれな様子に、衣を返すことにするが、舞を所望する。

天人は月の宮殿の周囲で演ずる舞曲を舞って見せて、世の悩める人々に伝えることにしようという。しかしそれも、羽衣がなければできないことなので、衣を返してくれるよう訴える。

すると、白龍はいう。「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給ふべき」その白龍の世俗的な疑いに対して、天人は次のように諭すのである。「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」

天人のこの言葉が謡曲『羽衣』の核となる一文である。天人の天人らしさがこの言葉に凝縮されている。

白龍は恥ずかしくなって、羽衣を返すのである。羽衣を着た天人はすばらしい舞を繰り広げながら、しだいに大空の霞の中に見えなくなってしまう。

天人の言葉についての『謡曲集一』の頭註を見ると、次のように解説されている。

丹後国風土記逸文に「天女いひしく、凡そ天人の志は、信をもちて本となす。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざると。老夫答へていひしく、疑い多くして信なきは率土[ひとのよ]の常なり。かれ、この心をもちて、許さじとおもひしのみと」とある。*3

謡曲『羽衣』は『丹後国風土記逸文』から天女の言葉を採用したのだろうが、この後の展開があまりに異なる。
丹後国』の老父は白龍とは異なり、衣を返すも、天女を自宅に連れ帰り、10余年共に住んだのだった。その後も話は続く。

前掲書『続・能のうた』によると、昔話としては『風土記逸文』に三種の羽衣伝説「駿河国三保の松原」「近江国・伊香の小江」「丹後国・奈具の社」があるという。

和銅6年(713)、元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂した地誌『風土記』は『古風土記』ともいわれ、完本といってよいのは天平3年(733)に成立した『出雲国風土記』のみである。播磨国肥前国常陸国豊後国のものが欠損状態で残っている。他の地域のもので、他誌に引用されたことで断片が残った逸文を『風土記逸文』という。

駿河国近江国丹後国に登場する天女は、いずれも漁夫と夫婦とならざるをえなかった。謡曲では天人は天人ならではの気韻――それを描ききる芸術が能楽なのだ――を失わずに済んだが、昔話では見る影もない落ちぶれようを晒して、不幸な人間の女と何の変わりもなく、痛ましい限りである。

謡曲『羽衣』では羽衣が天人の属性(オーラを連想する)であるかのようだが、昔話では天翔る道具、財産ともなる物品にすぎないかのようだ。

ただ、『風土記逸文』の三種の羽衣伝説からは、世界各地に伝わる異類婚姻譚の類型を見い出すことができる。話の盛りかたがそれぞれに異なり、興味深い。

例えば、「駿河国三保の松原」では、漁夫と夫婦になった神女[しんにょ]はある日、羽衣を取って雲に乗って去り、その漁夫も千人となって天に昇ってしまう。

中国清代の作家である蒲松齢(ほ・しょうれい 1640 - 1715)が著した『聊斎志異[りょうさいしい]』は有名な怪異短編小説集であるが、確かこの中に、妻に釣られるかのように天に昇った夫の話があったように思う。こうした結末は道教の影響を感じさせるものである。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出す。どこへお帰りになるのかはわからなかったが、上のほう、雲の彼方のどこかだろう。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのだろうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書かなかった。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書いた。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていた。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないだろうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのだろうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU 

マダムNの覚書 2022年1月14日 (金) 14:36

*1:門,2006,P.339

*2:門,2006,P.54

*3:小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973、p.356、頭註一)