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神経症(心因性頻尿)と共に過ごした中・高校時代
鬱病・パニック障害・境界型人格障害をセットとした診断名を持つ患者のブログが多いことに驚く。眠剤を常用している人のブログが多いことにも驚く。
わたしが少女の頃だから、40 年以上も昔の話になるが、その頃は神経症・精神病を扱う病院やクリニックは数が少なく、受診することにもかなりの抵抗がある時代だった。
あれは確か高校 1 年のときだったと思うが、わたしは中学 1 年時から悩んできたトイレが近い症状に我慢ができなくなり、鈍行列車で片道 1 時間半もかけて小都市のクリニックを受診した。
授業中ずっと今にも漏れそうな切迫感が続き、勉強に集中するどころではなかった。膀胱炎ではないから痛みも何もないのだが、精神的には地獄だった。何とか合格した高校は進学校だったから、このままでは落第すると思ったのだ。
わたしの住む町には、古色然とした陰鬱な外観の精神病院しかなかった。電話帳で調べたのだったかどうかは記憶にないが、ようやく見つけたそこは現在多いオフィス型のクリニックで、そのような気軽に行けそうなモダンなクリニックといえば小都市の街中ではそこくらいだった。
こっそり行くつもりだったのがばれ、いやだといったのに、初回だけだったが、母がついてきた。
強迫神経症(観念が強く迫ってくるこの病気には多彩な症状が属するが、わたしのような症状を今は心因性頻尿というようだ)と診断を受け、膀胱の絵など見せて貰い、「膀胱にはこんなに沢山尿が貯められるんだよ。だから、トイレに行きたくなったからといってめったに漏れはしないから、安心していいよ」と励まされ、精神安定剤をもらった。
発病に性的なことが絡んでいないか医師は疑い、カウンセリングを受けた。実際にわたしは小学生のときに性的悪戯を受けたことがあって、医師の疑いからそれが原因だとずっと思い続けていたが、果たしてそうなのか、現在のわたしはそのことにいささか懐疑的だ。
自己暗示をかける催眠療法というのがあるがどうするか、尤もそれを受けて一旦治ったようでもぶり返すことが多いが――と、医師は訊いてきた。黙り込んだのだったか何か答えたのだったかは忘れたが、催眠療法は受けなかった。結局そのクリニックには何回通っただろう、数えるほどだったと思う。
その頃の医師は精神安定剤をあまり処方したがらなかったが、理由をいえば薬局は売ってくれた。飲めば体に作用するが、肝心の患部というか弱みには全く効果が感じられない――従って飲んでも無意味に近いその薬を、わたしは母に内緒で買い漁るようになった。
「試験のとき、極端にあがってしまうので」といえば、薬局のほうではしぶしぶ売ってくれた。同じ手はなかなか使えない。それにどういうわけか、町中にある薬局のうちの数軒に母の同級生やら友人やらがいて、母にばれたら困るという思いがあった。とうとう町中の薬局には行き尽くし、精神科のクリニックのある繁華街でまで買い漁るようになった。まるで麻薬中毒患者のようだ、とわれながら思った。
悪癖を断つ
ある日一大決心をして、悪癖を断つことにした。遠くまで行って精神安定剤を買い漁るには旅費が必要で、小遣いからはその費用が捻出できなくなったというのが、直接的な理由だった。もっと深いところで、このままではいずれ廃人のようになってしまうのではないかという恐怖が働いていた。
かといって、症状は強まるばかりだった。全校集会のときなどは冷や汗が出、体が燃えるように熱くなったり顔が青くなったりしながら堪え、緊張が極まるとふいに自分がどこにいるのか何をしているのかもわからなくなる瞬間があるほどだった。
朝夕のジョギング、バレー部への入部、読書へののめり込み……と、症状を軽減させたい思いで必死だった。当然成績はひどく、高校1年次には赤点を頻繁にとり、職員会議によるお情けで落第するところを救って貰った。そんな劣等性が何人かいて、保護者共々校長室で説教された。母は曇った顔をしていた。
わたしは号泣したが、成績のことで泣いたわけではなく、自分の危うい将来を案じて泣いたのだった。症状は変らぬまま、3 年次までいったけれど、2 年次にはコツを覚え、ほとんど赤点をとらなくなった。試験のときは最初の 10 分間で、死に物狂いで超スピードで問題を解いた。それで何とか赤点は免れたのだ。無事に卒業もできた。
ブログを読んでいると、薬に頼りすぎている人が多すぎるように思え、心配になる。勿論必要な場合もあるだろうが、基本的に神経症に関する限り、薬はあまり必要ないのではないだろうか。症状を改善させるより、依存症という別の症状を惹き起こす確率のほうが高い気がする。
というのも、わたしと症状は違うが、同じ神経症という当初の診断から、精神安定剤や眠剤を服用するようになり、しばしば乱用もあって、服用の度合いが強まると共に症状も変化したのだろうか、鬱病・パニック障害・境界型人格障害がセットの診断を受けた友人がいる。同じ診断名の人のブログが多いこと、処方される薬の量が多いことに驚いたこともあって、疑問を覚えたのである。
近代神智学の創始者ブラヴァツキーは、まだニューヨークにあまり高い建物がなかった時代の人だが、眠りの重要性を神秘主義の立場から解説している。確かどこかで、飲酒や薬物による眠りからは本物の眠りが得られないとして警告している。
神経症になったきっかけ及び高校卒業以降
わたしが心因性頻尿になったきっかけは、中学 1 年時の授業中に挙手して許可を貰い、トイレに行ったことだった。それまではトイレはむしろ遠いほうで、学校にいる間中 1 度も行かなかった日もあるほどだった。
トイレに立ったことでからかわれたわけでも、極端に恥ずかしかったわけでもなかったのだが、休み時間にはトイレを済ませておくようになった。
そのうち行かなければ不安を覚えるようになり、それが次第にエスカレートしたのだと思うが、授業中や全校集会の間中ずっと今にも漏れそうな切迫感を覚えるようになったのだった。その症状が高校を卒業するまで続いた。
大学生になると、マンモス大学の法学部の授業は後ろのドアからも出入りできる大講義室で行われることが多く、オープンな雰囲気があったから、トイレのことがあまり気にならなくなった。
60 歳になった現在では、緊張する場面とかトイレに行きにくい状況下では近くなりやすいとはいえ、まあ普通といっていいだろう。その代わりに――といっては変だが、腎臓に結石ができやすくなり、それが尿管に落ちてくると、結石の刺激によって、排出されるまで尿意に苦しめられることになる。尿意と縁のある人生に呆れている。
神経症になったハムスター
そういえば、神経症をつくり出す動物実験をテレビで視聴したことがあったが、我が家で飼ったハムスターで、そうなったのがいた。子供たちが小学生から高校生になるまでに飼った 11 匹のハムスターのうちの 1 匹が、明らかに神経症だったのだ。
ショコラと名づけた、しとやかなメスのシャンガリアンハムスターは、顔を洗い終えたと思ったらすぐに同じ所作の第二楽章を始め、次に第三楽章……という具合に、毛繕いばかりしていたものだった。
ショコラがなぜそうなったのかはわからない。他のハムスター同様、ストレスはあったに違いない。しかしながら、少なくともフロイト的解釈でよく持ち出されるところの性的トラウマからそうなったわけではないだろう。
毛繕いに忙しかったショコラはわたしに懐く暇もないくらいだったが、死ぬ間際に抱いて小さな手を握ってやると、綺麗なまなざしでわたしを見つめてくれた。寿命は普通だった。
つらかった時代に没頭した詩作
神経症はつらい。拷問さながらだ。神経症にならなければ、わたしの場合、文学に今ほど深く関わることはなかっただろう。
つらかった当時、学研の高三コース「前登志夫の文芸ノート」の『詩』欄にせっせと投稿した。六席、四席、三席に選んでいただき、どれだけ励みになったことか。
六席になったのは『燕』。ぎこちない印象を与える詩ではあるが、動植物の生きざまが「師匠」のように感じられていた当時の心境がよく出ているので、前先生の選評と共に紹介しておきたい。
燕
空高きより出没し
地低く沈み
私の傍を
一瞬のうちに
よぎった
ほんの少しで
触れそうだった
本を握りしめ
それは雑踏の中
おまえは
抜け出して来たのか?
詩人の愛情が強すぎて
雨がやみ
おまえが描くのは
ゆるやかなカーブ
私の憂鬱も
飛び去った
おまえの背に
のっかって
十字架となった
おまえの体は
つるぎ
まばたきする間に
風は
真二つだ
おまえの
羽にかかれば
かくも軽き
私の悩みよ
《選評》
この詩もまた正確に対象をとらえ、内部と外部をきわどいところでひとつにした抜群の詩である。とりわけ、「十字架となったおまえの体はつるぎ」の一節は鮮やかである。(前登志夫)
マダムNの覚書、2006年6月19日 (月) 14:10、2018年12月8日に加筆