マダムNの神秘主義的エッセー

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5 自己流の危険な断食の思い出

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出典:Pixabay

病気のために、外食や弁当に頼ることもしばしばだが、食事というものの重要さは、わたしなりにわかっているつもりだ。というのも、大学生だったときに、自己流の断食を試みたことがあるからで、その体験を通して身に沁みてわかったことがあったのだった。

ただ、自己流の断食については、それがどんなに危険で愚かしい試みであったかは、その後神智学と出合って知ったことだった。今であれば、まあ常識でわかるはずのことだけれど。

文芸部の仲間も、寮の友人も、半ば面白がって、声援を送ってきた。まる4日しか続かなかったが、水もほとんどとらず、いきなり食を断った……そのことの危険さは、わたしもまわりの若い人間も知らなかった。

わたしは若さに任せて、よく物語の中で聖者がするような断食というものを、やってみたくなったというわけだった。

その断食の記録は大事にとっていたはずだが、長いあいだにどこかへ行ってしまった。覚えているのは、たった4日の断食でおなかがぺったんこになったということ、水もほとんど飲まないようにしたせいか、無茶な断食が吐き気との闘いであったということだった。仕方なく、とまらない吐き気をとめるときだけ水を飲むようにした。

異様に軽く感じられる体で、授業にはしっかり出た。普段は平気でさぼったりした癖に、なぜ律儀に出たかというと、人間から食べるという習慣を取り除くと、時間がたとえようもなくゆるやかに流れ出すようになり、めりはりがなくなって、広大な沙漠を歩いているような不安に駆られるからだ。授業にでも出なければ、やりきれなかった。

たったの4日間がひと月にも感じられた。断食をして一番つらかったのが、この時間の感覚の変化だった。時間というものは、意識のありようによって、いくらでも伸び縮みして感じられるものなのだ。食事というものが、ともかく人間の生活にリズムを与えることは確かである。

体の中に食べ物を入れなくなると、自分が空気を吸い吐いて生きている、つまり空気を食べ排泄しているということがクローズアップされてきた。普段宇宙などというものは意識の外にあったけれど、自分は宇宙の一部を食べ排泄している宇宙の子供なのだと感じた。

そこから発展した感じかたとして、飛躍した表現になるが、この世に自分と無関係なことなど何もなく、全てが連帯責任関係にあるのだとしみじみ感じられた。3日目があるポイント地点だったのか、自分がきらめきわたる宇宙の只中を漂っているような高揚する感覚が訪れた。

が、一転して、沙漠を歩いているような、そこで野垂れ死にしてしまうような、とてつもない空虚感と疲労感に襲われたりした。そのうち、死臭かと思うような嫌な臭いがどこからともなく漂ってくるような感じさえした。さすがに自分でも危険だと感じ、断食を中止したが、無知な仲間や友人は「なーんだ、たった4日しか続かなかったの?」とつまらなさそうにしたものだった。

 

マダムNの覚書、2006年8月 6日 (日) 02:00