49 絵画に見る様々なマグダラのマリア
出典:Pixabay
執筆中の拙児童小説『不思議な接着剤』に、グノーシス主義の福音書文書の一つ 『マリアによる福音書』に登場するマグダラのマリアをモデルとした人物を登場させたいと思い、マグダラのマリアについて自分なりに調べてきた。
マグダラのマリアを調べるということは原始キリスト教、グノーシス主義*1について調べるということでもあるが、参考資料を探すうちに、神智学徒として馴染んできたブラヴァツキー夫人の諸著がこの方面の研究には欠かせないことがはっきりしてきた。
並外れた神秘主義者であったH・P・ブラヴァツキー(1831年8月12日 – 1891年5月8日)は古代思想の優れた研究家であった。
わたしは英語が苦手なので邦訳が出るのを待たなければならないが、特に参考になりそうなのは Isis Unveiled である。
2巻本の原書に対して4冊構成となっている邦訳版はこれまでに2冊が上梓されており、その2冊H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、2015)にはキリスト教が出てきた背景やグノーシス主義について、多くの記述がある。
キリスト教権威主義が原因でブラヴァツキー夫人の諸著がアカデミズムから閉め出されている現状は、人類の思想史研究にとって大きな損失だと思われる。
マグダラのマリアについて、少しずつまとめながら当ブログにエッセーとして収録していきたいと考えている。
- 絵画によるマグダラのマリアの競演
- 東方教会が伝える、誇り高く行動的なマグダラのマリア(主の復活の第一証人、方々へ伝道、ローマ第二代皇帝にイエスの冤罪を直訴)
- イエスが結婚していたとする説
- イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)
- イエス一家の棺の発見
- 「フィリポ言行録」について
絵画によるマグダラのマリアの競演
手始めに、マグダラのマリアを題材としたパブリック・ドメインの絵画作品を鑑賞してみたい。
聖書の人物によって衣服の色がおおむね定まっており、聖母が青や紺色の衣やマントを着るのに対し、マグダラのマリアは緑色の下衣、朱色のマントを身につける事が多い。*2
初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399年頃 - 1464年6月18日)の聖マグダラのマリア。当時のフランドル女性という感じだが、右手を香油壺にかけている。衣装の左腕の模様が任侠映画に出てきそうな和柄っぽく見える……。
16世紀に描かれたマグダラのマリア。円光がまるで麦藁帽子のよう。
ルネサンス期のイタリアの画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488年頃 - 1576年8月27日)の『懺悔するマグダラのマリア』(1533年頃)。豊かな髪の毛をショールのように使って中途半端に裸体を隠している。風呂上りかと思ってしまう。傍らに香油壺。
ルネサンス期のイタリアの画家パオロ・ヴェロネーゼ (1528年 - 1588年)の『マグダラのマリアの改宗』(1547年頃)。1573年7月、ヴェロネーゼ は異端審問に召喚された。サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の食堂の壁画『最後の晩餐』の型破りな描き方が問題視されたのだった。彼は作品を描き直すようにとの命令に屈せず、タイトルを『レヴィ家の饗宴』と変更して済ませたという。
マニエリスム期のギリシアの画家エル・グレコ(1541年 - 1614年4月7日)の『悔悛するマグダラのマリア』(1576年 - 1577年)。
画家の筆は悔悛直後のマグダラのマリアを捉えたのだろうか。
髑髏が聖書に置かれている。よくマグダラのマリアと一緒に描かれる髑髏だが、イエスはゴルゴダの丘で磔刑死した。
ゴルゴダとはアラム語Golgothaで、頭蓋骨を意味するという。
頭蓋骨の形をした丘でイエスは磔刑に処されたのだ。イエスの死を見届けたマグダラのマリアが頭蓋骨(髑髏)と共に描かれるのは、そうした意味からなのか?
バロック期のスペインの画家ホセ・デ・リベーラ(1591年1月12日 - 1652年)の『マグダラのマリアの浄化』(1636年)。
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617 年12月31日 - 1682年4月3日)の『無原罪のお宿り(「スルトの無原罪のお宿り」または「ベネラブレスの無原罪のお宿り」と呼ばれる)』(1678年頃)は似た構図。マグダラのマリアと聖母マリアというテーマの違いはあるけれど。
ムリーリョの聖母の絵はクリスマスのカードなどにもよく使われているようだ。
『NHKプラド美術館4 民衆の祈りと美 リベーラ、スルバラン、ムリーリョ』(責任編集 大高保二郎・雪山行二、日本放送出版協会、1992)によると、ムリーリョの妻ベアトリスは産褥熱が原因で40歳で亡くなり、子供たちの多くも亡くなってしまった。娘はフランシスカだけとなったが、彼女は聾者で、ドミニコ会の修道院に入った。パロミーロによれば、ムリーリョは「画才も人柄も天賦の素質に恵まれ、善良温厚で、優しく、謙虚で慎ましい人間であった」という。
前掲の『無原罪のお宿り』は深々とした母性を感じさせ、次に示すそれ以前の1660年~65年頃に制作された『無原罪のお宿り(特に「エスコリアルの無原罪のお宿り」の名で知られる)』は清浄そのものといってよいのか、清純そのものといってよいのかわからないが、比類ない美しさを湛えている。
ムリーリョは何枚もの無原罪のお宿りを制作しており、マグダラのマリアも複数制作している。
ムリーリョの聖マグダラのマリア。1650年~55年頃の制作。印象的な作品だが、一般女性の渾身の祈りという感じである。何かに恐怖しているようにも見える。マグダラのマリアの前方に聖書、髑髏、香油壺が配置されている。
フランス古典主義の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593年3月19日 - 1652年1月30日)。『悔い改めるマグダラのマリア』(1635年頃)、ナショナル・ギャラリー。
光と影が織りなす謎めいたムード。髑髏に左手をかけて瞑想するマグダラのマリアが占い師のように見える。
同じくジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『悔い改めるマグダラのマリア』(1635年頃)、メトロポリタン美術館。これも光と影の使い方が巧妙。膝の上に髑髏あり。髑髏の代わりに猫でもいいような気がする。
現代女性風だと思ったら、これまでの絵よりは時代が下った19世紀、オランダ生まれのフランスの画家アリ・シェフェール(1795年2月10日 - 1858年6月15日)によるマグダラのマリアだった。
イギリスのノリッジに生まれたラファエル前派の画家アントニー・オーガスタス・フレデリック・サンズ(1829年 - 1904年)のマグダラのマリア。美しい絵だけれど、香油壺を手にしていなければ、マグダラのマリアとはわからない。
ロシア帝国の画家ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ヴァスネツォフ(1848年5月15日 - 1926年6月23日)の「マグダラのマリア」(1898年)。超然としたムードが神話に登場する女神のようだ。マリアは香油壺を手にしている。
他にも様々なマグダラのマリアが描かれてきたが、次に紹介する東方正教会のマグダラのマリアのイコン(14~17世紀)を観たとき、決定版はこれだと思った。
一般人でない感じが出ているのは、これが一番ではないだろうか。マグダラのマリアがイエスに最後まで付き従った志操堅固な弟子だったことからすると(他の弟子たちは怖じ気づいて逃げてしまった)……場所柄からも……
萬子媛の肖像画を連想してしまった。
東方教会が伝える、誇り高く行動的なマグダラのマリア(主の復活の第一証人、方々へ伝道、ローマ第二代皇帝にイエスの冤罪を直訴)
西方教会ではベタニアのマリア、罪の女がマグダラのマリアと同一視され、特に悔悛した娼婦というイメージが形成されたのに対して、東方正教会では同一視されなかった。描かれるマグダラのマリアに違いがあるのは伝承の違いによる。
東方正教会でマグダラのマリアはどのように語り伝えられているのか、ウィキペディアから引用しておく。
伝説
マグダラのマリアは晩年にイエスの母マリア、使徒ヨハネとともにエフェソに暮らしてそこで没し、後にコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に移葬されたと信じられている。
正教会での伝承の概略
レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐より、部分。 イエスの向かってすぐ左隣に位置する女性的な風貌の人物は使徒ヨハネとされているが、一説ではマグダラのマリアともいわれている。
イエスが結婚していたとする説
イエスが結婚していたという説もある。
2012年9月18日付ロイターの記事*4によると、エジプトかシリアで発見されたと考えられている、名刺サイズのコプト語(古代エジプト語)で書かれた文献に、「イエスは彼らに言った。『私の妻は』」などと記されているという。
発表したのは、カレン・L・キングで、アメリカのハーバード大学神学部・古代キリスト教史の教授。『マグダラのマリアによる福音書』研究の世界的第一人者である。
キング教授は、発見された文献について、キリストが結婚していたことの証明とはならないとした上で、初期の信者の一部がキリストに妻がいたと信じていたことを示す初の証拠となるものだとの見解を表明したという。
マイケル・ベイジェント&リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン(林和彦訳)『レンヌ=ル=シャトーの謎――イエスの血脈と聖杯伝説――』(柏書房、1997)の《1996年版のあとがき》に次のような記述がある。
ユリ・ストヤノフは、著書『ヨーロッパ異端の源流』の調査中に尋常でない刺激的な文書を入手した。この文書は、とくにラングドッグ地方のカタリ派思想について詳しく解説したものである。この文書はおそらく司祭のカトリック作家が編纂したもので、彼はカタリ派の上層部に入りこみ、新入会員の教育の場に出席した。この場で、危険な秘密が将来の「完徳者」に伝授されたらしい。この文書からユリ・ストヤノフは、カタリ派ではイエスとマグダラがまさに結婚していたことが、ひそかに教えられていることを発見した(Stoyanov,Y., The hidden Tradition in Europe, London, 1994, pp 223-23)。
マダムの覚書、2016年2月23日 (火) 19:31
イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)
2016年4月6日における追記:イエスの愛しておられた者とは誰か?
『ヨハネ福音書』がグノーシス的とは一般にもいわれているところで、カタリ派がグノーシス的であったことから考えると、カタリ派が『ヨハネ福音書』を愛した理由もわかる気がしたのだが、結局のところ偏愛したほどの理由がわたしにはわからなかった。
ところが、エレ―ヌ・ペイゲルス&カレン・L・キング(山形孝夫・新免貢訳)『「ユダ福音書」の謎を解く』(河出書房新社、2013)を読む中で、共観福音書とヨハネ福音書の違いを改めて意識させられ、なるほど……と思わせられた。
共観福音書というのは、比較のための共観表が作成されたマルコ福音書、マタイ福福音書、ルカ福音書のことで、この三つの福音書は共通点が多い。
エレ―ヌ・ペイゲルス、カレン・L・キングはイエス亡きあと、集団の指導者争いが起きた可能性が高いことに注意を促し、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書がペトロを指導者として描いているのに対して、ヨハネ福音書だけが違った見方を示していると書く。
『ヨハネ福音書』の著者も、ペトロが弟子集団のなかで重きをなしていることを認めている。しかし、著者は一貫して、弟子集団のなかで最も高位にある者と彼が見なす者――それは「イエスの愛しておられた者」(『ヨハネによる福音書』13章23節)と彼が単純に呼ぶ者――を除けばの話であると限定づきである。*5
『ヨハネ福音書』では、「イエスの愛しておられた者」は明らかにペトロより高位に置かれている。「イエスの愛しておられた者」はヨハネ福音書にはたびたび登場し、共観福音書には登場しない。
このイエスに愛された弟子が誰であったかについて、古来憶測を呼んだようであるが、わたしはこの人物の特異な描かれ方について、昨日になるまで全く気づかなかった。
レオナルド・ダヴィンチ「最後の晩餐」からダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』に至るまでイエスの影のように存在する人物像のモチーフとなり、果てはバチカンに付きまとう男色傾向の原因となってきたものが何であるかをわたしはこれまでわかっていなかったことになる。
だが、それもそのはず、翻訳の問題があったのである。主に新改訳聖書刊行会訳で新約聖書を読んできたわたしが気づかなかったのも仕方がない。
「イエスの愛しておられた者」を女性と考えるか男性と考えるかで、ヨハネ福音書の世界は180度変わってくる。
その部分を、わたしが大学時代、集中的に丹念に読んだ新改訳聖書刊行会訳と後年参考のためにカトリック教会付属の書店で買ったフランシスコ会聖書研究所訳とで比較してみよう。
新改訳聖書刊行会訳『聖書 新改訳』(日本聖書刊行会、1978・2版)
フランシスコ会聖書研究所訳『新訳聖書』(中央出版社、改訂1984)
弟子の一人が、イエズスの胸に寄り添って食事の席に着いていた。その弟子をイエズスは愛しておられた。(11)*7
フランシスコ会聖書研究所訳では異様な光景に思えるが、この箇所には次のような注がつけられている。
「食事の席に着いていた」は直訳では「横になっていた」。宴会では、身を横たえながら左肘をついて食事をするのが当時の習慣であった。「弟子の一人」はイエズスの右側に横になり、顔をイエズスの胸に近づけていたのであろう。*8
イエスたちはローマ式のマナーで食事をしていて、最後の晩餐でもそうであったというだけの話であるが、そうした予備知識なしに読むと、何だか官能的なムードの最後の晩餐に思えてギョッとする。
何にしても、最後の晩餐でイエスや弟子たちが身を横たえて飲み食いしていたと考えると、イメージが狂う。
自身の磔刑死を予感していたイエスが最後の晩餐の席で最愛の者を最も身近に置きたいと思ったとしても、何の不思議があろうか。
イエスがしばしばラビと呼ばれ、ラビは結婚していたことが普通であったことから考えると、その最愛の者が最高位の弟子であり、また最愛の者であったと外典が語るマグダラのマリアであっては、なぜいけないのか。
正典から除外された、いわゆる「外典」に分類されるグノーシス主義的福音書『マリア福音書』ではマグダラのマリアとペトロが口論し、『フィリポ福音書』ではイエスがマグダラのマリアを全ての弟子たちよりも愛してしばしば口づけしたと書かれ、『トマス福音書』では女性蔑視とマグダラのマリアに対する敵意を露わにするペトロをイエスがたしなめる。
こうした外典を知ってしまうと、イエスに愛された弟子はマグダラのマリア以外に考えられず、その事実をぼかし、曖昧にするために架空の「イエスに愛された弟子」が追加されたとしか考えられなくなる。
つまり、「イエスに愛された弟子」もまたマグダラのマリアであり、マグダラのマリアは表現上の工夫から二人に分けられた。ヨハネ福音書ではマリアをペトロより高位に位置づけながら、そのことをぼかすために架空の弟子が配置されたのだ……
グノーシス主義的な福音書が正典として生き残ってこられたのは、こうした工夫があったからこそだろう。もっとも、「イエスの愛しておられた者」が実在した他の人物であったことを否定する根拠には乏しい。
ヨハネ福音書をごく素直に読めば、「イエスに愛された弟子」は使徒ヨハネだと考えるのが自然であろうから、そうだとすれば、そこにはプラトン描く美少年愛好癖のソクラテスかと見まごう光景が最後の晩餐では繰り広げられていたことになり、バチカンが男色にお墨付きをもらったような気分に誘われるのも道理な話ではある。
ただ実際にはソクラテスの美少年愛好癖はひじょうにプラトニックな、情操を高めるためのアイテムといってよい性質のものだと思われ、こうした傾向にしても、「秘すれば花」的男色を語る『葉隠』にしても、ここまでプラトニックになると、もはや男色とは呼べない種類のひじょうに高級な情操であろう。
イエスと母マリアが列席している印象的なカナの婚宴が出てくるのも、ヨハネ福音書である。イエス自身の婚宴との説もある(結婚相手はマグダラのマリア)。他人の婚宴で、母マリアが葡萄酒の心配をして息子イエスに相談するのは妙だが、それが息子の婚宴だったとすると不自然な話ではない。
いずれにしても、ペトロよりもマグダラのマリアと「イエスに愛された弟子」が存在感を持つグノーシス主義的ヨハネ福音書を異端とされたカタリ派は偏愛したということである。
ブラヴァツキー夫人はグノーシス派を高く評価し、『シークレット・ドクトリン』の中で次のように述べている。
仏陀とピタゴラスではじまり、新プラトン派とグノーシス派に終わるこの時代は、頑迷と狂信の黒雲によって曇らされることなく、過ぎ去った幾時代もの昔から流れ出た輝かしい光線が最後に集まって現れた、歴史の中に残された唯一の焦点である。*9
マダムの覚書、2016年4月6日 (水) 19:49
イエス一家の棺の発見
2019年8月22日における追記 1: イエス一家の棺の発見
前章「イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)」で、わたしは最後の晩餐でイエスに寄り添っていた「イエスの愛しておられた者」が誰なのかを推測した。
その人物が、イエスの最も高位の愛弟子であり、妻でもあったマグダラのマリアであってはなぜいけないのか、と書いた。そのように書きながらも、疑問を拭いきれなかった。
最後の晩餐だからといって、妻が師でもある夫の胸に寄り添うのは行き過ぎのような気がしていたのだった。だが、それが成人男性であるとすれば、もっと異常な場面であると思われ、従ってマグダラのマリアと考えざるをえないと思っていたのだ。
疑問を払拭する著書に出合ったので、追記しておきたい。
7月のある日、図書館から借りた10冊の中に、シンハ・ヤコボビッチ&チャールズ・ペルグリーノ(沢田博訳)『キリストの棺 世界を震撼させた新発見の全貌』(イースト・プレス、2007)が混じっていた。何となく借りた、内容にはほとんど期待していなかった本だった。
ところが、わたしには面白いどころの本ではなかった。
1980年代に、エルサレムで2000年前の墓が発見されていたという。納骨洞にあった10個の骨棺は、イエス(ヨセフの息子イエス)、マグダラのマリア(師として知られたマリアムネ)、2人の子供であると思われる男の子ユダ(イエスの息子ユダ)他、新約聖書に登場するイエスの家族のものだというのである。
1世紀ごろのユダヤ社会では、イエスもマリアもユダも他の家族の名もありふれたものだったが、これだけの名が一つの家族に集まる可能性は600に一つにすぎないらしい。
このドキュメンタリーから、ジェームズ・キャメロン監督によるテレビ用のドキュメンタリー番組が制作された。
わたしは『ダ・ヴィンチ・コード』の元ネタとなったマイケル・ベイジェント &ヘンリー・リンカーン&リチャード・リー『レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説』(柏書房、1997)を面白く読み、『マリアによる福音書』に登場するマグダラのマリアをモデルとした児童小説の参考にもしていた。
それなのに、どういうわけか、『キリストの棺』も、日本でも放送されたというドキュメンタリー番組も(ググったらフランスの動画サイトで出てきた)、全く知らなかったのである。
当時の新聞記事が出てきた。
「『キリストに妻子』、ジェームズ・キャメロンのドキュメンタリーが波紋 - 米国」『AFPBB News』。2007年2月27日 11:45 発信地:米国、URL: https://www.afpbb.com/articles/-/2187431
わたしは興奮した。何と著書の内容が欠けていたピースの役割を果たし、イエスの物語を辻褄の合う物語にしてくれたのである!
最初、あまり『キリストの棺』を読む気がしなかったのは、マグダラのマリアが南フランスで亡くなったと思っていたからだった。
ところが、『キリストの棺』によると、わたしが未読の新約聖書外典『フィリポ言行録』に、ローマ帝国の迫害を逃れて一旦フランスへ渡ったマグダラのマリアが兄フィリポと共に小アジアへ伝道の旅に出、後にエルサレムへ戻ったという記述があるというのである。
マリアには、マルタという姉とラザロという弟がいたのではなかったか? 兄もいたのだろうか。
もし、『フィリポ言行録』の記述が本当であれば、彼女の骨棺がエルサレムで発見されても不思議ではないことになる。
『キリストの棺』によると、「マリアムネ」と「イエス」の骨片はそれぞれの骨棺の底に残っていた。
細胞核から抽出したDNAは、損傷がひどくて、分析に適さなかった。母方の家系を探るのに使える、細胞質に存在するミトコンドリアDNAの抽出に成功し、それによると、マリアムネすなわちマグダラのマリアとイエスは母と子ではなく、兄弟でもないと判明した。つまり、他人である。
他人でありながら同じ墓から出てくるケースは、夫婦以外に考えられないという。
イエスにユダという名の息子がいたという推定については、著者達はその根拠を新約聖書に求め、『マルコによる福音書』に出てくる次の若者がそうではないかという。
ある若者が素はだに亜麻布だけをまとって、イエズスの後についていたが、人々が逮捕しようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げ去った。*10
異様な記述だと思っていた。裸で逃げる? 著書によると、大人が素肌に薄い亜麻布のシャツだけを身につけているなど考えられないが、子供ならありえたそうだ。
また、『ヨハネによる福音書』で、イエスの十字架の傍らに女性達に混じって立っている「愛する弟子」も、イエスの息子ユダだと著者達は考えた。
ところで、イエズスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。イエズスは、母とそのそばに立っている愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、これはあなたの子です」と仰せになった。それから弟子には、「この方は、あなたのお母さんです」と仰せになった。そのときから、この弟子はイエズスの母を自分の家に引き取った。*11
著者達は、聖書ではマグダラのマリアと聖母マリアが意図的に混同されている、とする説を紹介している。意図的な混同は、マグダラのマリアとイエスの本当の関係を隠すためだという。
この場合、ヨハネの福音書に言う「母」は実のところ「妻」マグダラであり、死にゆくイエスは愛する妻に「息子を頼む」というメッセージを残したとも解釈できる。*12
『ヨハネによる福音書』のこの箇所にも、わたしはずっと違和感を覚えていた。女性達の中に男性の弟子が一人だけ混じっている不自然さ。その弟子に、イエスはなぜ自分の母親を押し付けることができたのだろう。弟子の正体が皆目わからなかった。
だが、女性達の家族的な雰囲気の中に混じっているのが子供だったとすれば、納得がいく。この子は父親であるイエスが心配でたまらなかったのだろうし、子供であれば、祖母と母がいるところに一緒にいてもおかしくない。
いずれにしても、最後の晩餐でイエスの胸に寄り添っていたのが幼い息子であったとすれば、何と納得がいくことだろう! 自身の死とエルサレムの崩壊を予感していたイエスは、後継ぎである息子を抱き寄せて、最後の食事をしたのではないだろうか。
ところで、中世に著わされた聖人伝説集、ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』にはマグダラのマリア伝説がある。舵のない船で海に流されたマリア一行が南フランスに漂着したという伝説なのだが、その中に領主夫妻の子として出てくる、愛くるしい男の子がわたしは忘れられなかった。
ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作&山口裕訳)『平凡社ライブラリー 578 黄金伝説 2』(平凡社、2006)では、マリアの出自について、次のように書かれている。
マグダラのマリアは、〈マグダラ城〉とあだ名されていた。門地は、たいへんよかった。王族の出だったのである。父の名はシュロス、母はエウカリアといった。弟のラザロ、姉のマルタとともに、ゲネサレト湖から2マイルのところにあるマグダラ城とイェルサレム近郊のベタニア村と、さらにイェルサレム市に大きな地所を所有していた。しかし、全財産を3人で分けたので、マリアはマグダラを所有して、地名が名前ともなり、ラザロはイェルサレムを、マルタはベタニアを所有することになった。
マグダラのマリアは王族の出で、マグダラの領主だったという。マグダラは古代におけるガリラヤの都市の一つである。
彼女はイエスの死後14年目に、南フランスに船で漂着した。
そして、奇妙なことに、マグダラのマリア一行の漂着後、すぐに子宝物語が始まるのである。『黄金伝説』から、ざっと紹介しておこう。
偽神に子宝をさずかる願をかけようとしたマルセイユの領主は、マリアにとめられ、キリスト教の信仰を説かれた。領主は、マリアの信仰が真実であるか確かめたいといい出し、マリアはそれに対して、聖ペテロに会うようにと促す。領主は、マリアに男の子をさずけてくれたならそうするという。夫人はみごもる。
ペテロに会いに行くという領主に、身重の夫人は無理について行く。マリアはお守りの十字架をふたりの肩に縫いつける。一昼夜航海したとき、嵐に遭い、夫人は船の中で男児を産み落とした後で死ぬ。困った領主は、母の乳房を求めて泣く赤ん坊と亡骸を岩礁に置き去りにする。
ローマのペテロに会いにいった領主は、2年間をペテロと共に過ごす。帰途、赤ん坊と亡骸を置いた岩の島に寄ると、赤ん坊は愛くるしく育っていて、領主が妻のことをマグダラのマリアに祈るうちに、妻はまるで『眠れる森の美女』のように目を開ける……
これはどう考えても不自然な話だが、イエスとマグダラのマリアの間に子供がいたという秘密を潜ませようとしたための不自然さなのかもしれない。
イエス、聖母マリア、マグダラのマリアのものと考えられている骨棺について、『キリストの棺』から、もう少し詳しく紹介しておくと、イエスのものと考えられる骨棺は10個の骨棺のうち最も簡素であったという。
それには、「YESHUA BAR YOSEF(ヨセフの息子イエス)」というアラム文字の刻印があった。しかも、先頭の Y の字の前には、文字より大きな「X」マークが刻まれていた。
それが何であるか、著者達は旧約聖書のエゼキエル書(9・4)に根拠を求め、アラム語やヘブライ語のアルファベットで最後に来る文字「タウ」と推定する。
その「X」に似た文字は、ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ*13によれば、「それ自体で何かの終わりを、また同時に新しい何かの始まりを意味していた」というのである。
イエスのミトコンドリアDNAは、2000年前のヨルダン川流域に住んでいたセム族のそれに酷似していた。ギリシャやインドに由来する遺伝子も観察できたが、圧倒的にセム族の痕跡が強い。
イエスやマグダラのマリアはどんな顔をしていたのだろう。確かなことは誰にもわからないが、マセソン博士によれば、髪と目は黒かった可能性が高い。イエスの髪にはウェーブがかかり、アフリカの人のように「縮れて」いただろう。*14
聖母マリアのものだとされる骨棺には、「マリア」の名がヘブライ文字で刻まれていた。「マリア(Maria)」は聖書に出てくる「ミリアム」のラテン語バージョン。ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ*15によると、「ただしヘブライ語の綴りではなく、ラテン語での発音をそのままなぞっていた」そうだ。
マグダラのマリアのものだとされる棺には、「マラとして知られたマリアムネ」と刻まれていた。
Marat(マラ)はアラム語で「主」または「師」を意味し、男性形も女性形も同形。Mariamne(マリアムネ)は、ヘブライ語Miriam(ミリアム)のギリシア語バージョンだという。
マグダラのマリアはガリラヤ湖周辺の生まれで、ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ*16によると、「イエスの教団を経済的に支える存在」であり、土地柄からも彼女はおそらくバイリンガルで、ヘブライ語とアラム語に加えてギリシア語にも通じていたと考えられるそうだ。
ギリシア語ができたからこそ、マグダラのマリアはギリシア語圏であった小アジア(アナトリア)で、師と呼ばれるほどの活躍ができたのだろう。
ちなみに、旧約聖書は概ねヘブライ語で記されている。イエス時代のパレスチナで使われていたのはアラム語であった。新約聖書にもイエスの言葉としていくらかアラム語が出てくる。新約聖書はギリシア語で記された。
「マラとして知られたマリアムネ」と刻まれた骨棺は、ヤコボヴィッチ&ペルグリー*17によると、「バラの花弁をあしらったロゼッタ文様で美しく飾られて」いた。
マダムNの覚書、2019年7月26日(金)22:11
「フィリポ言行録」について
2019年8月22日における追記 2: 「フィリポ言行録」について
シンハ・ヤコボビッチ&チャールズ・ベルクリーノ(沢田博訳)『キリストの棺』(イースト・プレス、2007)には、初期キリスト教の文献にたびたび引用されているが、わずかな断片が残るのみだった「フィリポ言行録」がよみがえったという、次のような興味深い記述がある。
1976年、フランス人のフランソワ・ボボンとベルトラン・ブービエがアトス山のクセノフォントス修道院の車庫に眠る文献の中から、「フィリポ言行録」のほぼ完全な写本を発見したのである。4世紀ごろのテキストにもとづく、14世紀の写本とされている。
2000年6月、ボボンらはアトス山版「フィリポ言行録」のフランス語訳を完成し、世に問うた。そしてマグダラのマリアが使徒フィリポの妹であり、「マリアムネ」と呼ばれていたことを明らかにした。マグダラのマリアに関する限り、「フィリポ言行録」は新約聖書をはるかにしのぐ情報の宝庫だった。*18
英語版ウィキペディアによると、フランソワ・ボボン(FrançoisBovon 1938年3月13日 - 2013年11月1日)はスイスのローザンヌ生まれ。聖書学者、初期キリスト教の歴史家。ハーバード神学校宗教史の名誉教授。
フランス語版ウィキペディアによると、ベルトラン・ブービエ(Bertrand Hermann Bouvier 1929年11月6日 - )はスイスのチューリヒ生まれ。ジュネーブ大学文学部の名誉教授。
残念ながら、『フィリポ言行録』はまだ邦訳されていないようだ。
マービン・マイヤー&エスター・A・デ・ブール(藤井留美&村田綾子訳)『イエスが愛した聖女 マグダラのマリア』(日経ナショナル ジオグラフィック社、2006)には、マグダラのマリアが登場する文書として、新約聖書の福音書、ペトロの福音書の他に注目すべき文書群――マリアの福音書、トマスの福音書、フィリポの福音書、救い主との対話、ピスティス・ソフィア、マニ教詩篇集「ヘラクレイデスの詩篇」が紹介されている。
これらに「フィリポ言行録」が加わって、いよいよマグダラのマリアの存在感、文書類の内容の統一感が際立ってくる。それにつれて、新約聖書に登場する人々のよくわからなかった異様、異常と思われた行動も理解できるものとなっていく。
マダムNの覚書、2019年7月28日 (日) 00:28
○ 拙ブログ「マダムNの覚書」における関連カテゴリー
マダムNの覚書: Notes:グノーシス・原始キリスト教・異端カタリ派
*1:グノーシス(gnõsis)はギリシア語で知識の意。H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(神智学協会ニッポン・ロッジ 竜王文庫内、1995)の用語解説では、「グノーシス派(Gnosticism)」について次のように解説されている。「1世紀~4世紀に広まった、霊知(gnosis)を重視した宗教思想をいう。その中ではキリスト教的な宗派もあるが、ギリシア哲学、東洋思想、中近東の従来の宗教思想を調和させようとするシンクレティズム(異教統一)の傾向が強い」(用語解説p.10)
*2:「マグダラのマリア」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年2月10日 (水) 17:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org
*3:「マグダラのマリア」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年2月10日 (水) 17:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org
*4:2012年09月19日16:15JST[ボストン 18日 ロイター]キリストに妻いた可能性示す文献発見か、論争再燃も “イエス・キリストが妻について語ったと記されている文献が発見され、キリストに妻がいたかどうかをめぐる論争が再燃しそうだ。ローマで開かれた学会で、米ハーバード大学のカレン・キング教授が18日発表した。/名刺サイズの同文献は4世紀のものとみられ、古代エジプト語(コプト語)で「イエスは彼らに言った。『私の妻は』」などと書かれていた。/匿名の所有者が同文献をキング教授に持ち込み、解読を依頼した。エジプトもしくはシリアで発見されたものと考えられている。キング教授は同文献について、キリストが結婚していたことの証明にはならないとした上で、「初期の信者の一部が、キリストに妻がいたと信じていたことを示す初の証拠」と指摘した。/キリストに妻がいたかどうかをめぐる論争は以前から度々起きているが、2003年に発表された小説「ダ・ヴィンチ・コード」は、イエスが売春婦とされるマグダラのマリアとの間に子どもがいたとするストーリーを展開し、多くのキリスト教信者の怒りを買った。”
*5:ペイゲルス&キング,山形・新免訳,2013,p.66
*6:ヨハネ13.23,新改訳聖書刊行会訳,1978・2版,p.190
*7:ヨハネ13.23,フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.360
*8:(11),フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.361
*9:H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ,1989,序論p.181
*10:マルコ14.51-52,フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.171
*11:ヨハネ19.25-27,フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.388
*12:ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ,2007,p.305
*13:2007,pp.293-294
*14:ヤコボヴィッチ&ペルグリーノ,2007,p.262
*15:2007,p.38
*16:2007,p.168
*17:2007,p.50
*18:ヤコボビッチ&ベルクリーノ,沢田訳,2007,p.160