三井晩鐘(※近江八景 三井寺)、天保5年(1834)頃
歌川広重(1797 - 1858)
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花山院萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。
祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。
萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。
1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。
1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。
朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。諡、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。
神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。
金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。
萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。
元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。
梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月
藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。
田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成(1114 - 1204)で、定家はその子、藤原俊成女は孫娘に当たる。
藤原俊成女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と藤原俊成女の間には確執が生じたようだ。
平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。
その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、藤原俊成女だった。
それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。特に進取の気性に富んだ式子内親王の生きかたや歌には心惹かれる。
『異端の皇女と女房歌人』によると、式子には、禁忌を気にせず、加持祈祷を信じない一面があったらしい。式子は晩年三度も呪詛や託宣の事件に巻き込まれたというから、周辺のそうした傾向にうんざりしていたのかもしれない。
『新古今和歌集』の歌は技巧的だというふうに、国語の授業でだか古文の授業でだか習った覚えがあった。だが、その意味をわたしはあまりわかっていなかったようだ。授業では、そこまで詳しくは習わなかった気もする。
前掲書『異端の皇女と女房歌人』によれば、作者自身の体験や感情を核とした平安時代までの和歌とは異なり、院政期からは宮廷和歌において、題詠歌が主流をなした。
題詠とは、あらかじめ設定された題によって和歌を詠むことであり、題がそれぞれもっている本意(詠むべき主題)をふまえて、本意によって表現史的に様式化された美的観念を、虚構を土台に詠歌することである。(略)歌の作者は、いわばその詠歌主体の人物になりかわって、歌を詠む。物語の作者が、物語中の人物になりかわって歌を詠むことと、ある意味で似ている。*1
それにしても、授業でも習った『新古今和歌集』の中の式子の「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」という情熱的な歌が、「男歌=男性が詠歌主体の歌」だと論証されていると知って、驚いた。いわば、男装して詠まれた歌だという。
式子の恋歌には男歌が多いらしい。勿論、女歌もあるから、鑑賞する場合は二重、三重に注意が必要になる。
『異端の皇女と女房歌人』に、藤原俊成女について興味深いことが書かれていた。
健保元年二月七日、四十三歳の俊成卿女は、出家して天王寺に参籠[さんろう]した(『明月記』)。けれどもこれは遁世の出家ではなく、夫通具への別れと独立の宣言であった(森本元子)。中世においては、夫存命中の妻の自由出家は婚姻の解消を意味し、出家によって世俗女性を縛る制約から放たれ、自由な立場を手に入れた。俊成卿女の出家はまさにこれにあたるものであろう。*2
萬子媛の場合も、夫存命中の出家であった。息子の急死がきっかけだったのだろうが、藤原俊成女の出家のような意味合いも含まれていたのかもしれない。いずれにせよ、萬子媛は藤原俊成女の歌を愛したようだ。
また、藤原俊成女は『源氏物語』の注釈・研究を行ったそうだ。断片的に残っているその内容からすると、それは「非常に学術的・考証的な内容」であり、女房歌人というよりも古典学者のような相貌[そうぼう]を見せている」*3という。
萬子媛も才媛であり、鍋島藩において、その影響には大きなものがあったようである。
藤原俊成女は80余歳で没したとされる。萬子媛は80歳で没した。
幽玄美を提唱して『新古今和歌集』の歌人を育てた藤原俊成、『新古今和歌集』の撰者の一人であった定家、藤原俊成女らは藤原北家の人々で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今和歌集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。
そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。藤原北家は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つである。
萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。
修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。
一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。
その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。
「古今和歌集仮名序」(巻子本) 仮名序の冒頭。「古今倭歌集序」と最初に書くが、通常の『古今和歌集』の伝本にはこの題は無い。12世紀ごろの書写で国宝に指定されている。大倉集古館蔵。
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萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。
二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。
二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。
二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。
昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。
平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 を参照されたい)。
こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。
それらが特に感じとれる歌、訳及び解説を『日本古典文書12 古今和歌集・新古今和歌集』(訳者代表・窪田空穂、1990)より引用する。
森羅万象に宿る神性。
熊野[くまの]へ御参詣の途次、桜の花の盛りであるのを御覧になって
咲きにほふ花のけしきを見るからに神の心ぞ空に知らるる
(豊かに咲き映えている花の様子を見るとすぐにも、神の御心がおのずと推しはかられる。)*4
天王寺[てんのうじ]の亀井の水を御覧になって
上東門院『新古今和歌集』巻第二十釈教歌
濁りなき亀井の水をむすびあげて心の塵[ちり]をすすぎつるかな
(清らかな亀井の水を手に救い上げて飲んで、心の煩悩をすっかり洗いすすいだことです。)*5
神仏一如。
伊勢の月読[つきよみ]の社に参詣して、月を見て詠んだ歌
さやかなる鷲[わし]の高嶺の雲居[くもゐ]より影やはらぐる月読[つきよみ]の森
(さやかなる光を待って、鷲の高嶺の空から来る、本来は仏である月の、光を和らげて、この国に月読の神として現われた、その月読みの神の森ではある。「鷲の高嶺」は、霊鷲山[りょうじゅせん]で、釈迦如来が法華経を説いた山。この「山」は、今は、月の関係でいっており、また、「月」すなわち月読の神を、本来は仏であるということを暗示する。)*6
神祇の歌として詠んだ歌
やはらぐる光に余る影なれや五十鈴川原[いすずがはら]の秋の夜の月
(大日如来が、大神となって光を和らげられたが、あり余る光なのであろうか、いま五十鈴川原に映っている秋の夜の月は。神祇の歌として、五十鈴川に映る月を捉え、その月に、当時の神道の和光同塵[わこうどうじん]の説を取り入れ、「光に余る影」という事によって、月を讃えたのである。「光に余る」は、大日如来の仏徳さながらであることを暗示すると共に、大神の神威の盛んな事をも暗示する。)*7
輪廻観。
「述懐」の心を
わが頼む七[なな]つの社[やしろ]の木綿襷[ゆふだすき]かけても六[むつ]の道にかへすな
(わが頼み申す七つの社の神々よ、われをそれに関係させて、六つの道に戻すことはしたもうなよ。「七つの社」は、日吉の山王七社で、大宮、二宮、聖真子、客人、大禅師、三宮、八王子。「木綿襷」は、神巫[かんなぎ]が神前に神饌、弊物などを捧げるる時に、式として懸けるもの。その懸けるから、下の「かけ」の有心[うしん]の序。「六の道」は、地獄、餓鬼、畜生、修羅[しゅら]、人間、天上の六道で、罪障ある衆生の輪廻[りんね]する世界。)*8
一切皆成仏。
法華経二十八品[ほけきょうにじゅうはちほん]の各品[かくほん]を歌として、人々に詠ませた時に、「提婆品[だいばほん]」の心を
わたつ海[うみ]の底より来[き]つる程もなくこの身ながらに身をぞ極[きは]むる
(竜女は、大海の底から出てくるや、間もなく、その身のままで、成仏したことではある。「提婆品」は、法華経第十二品の名。ここには、八歳の竜女が、忽ちに女身を変じて、男身に転じ、成仏するという、いわゆる「竜女成仏」が語られている。この説話は、畜生成仏、女身成仏、年少成仏を証明したもので、いっさいの生類[しょうるい]は、平等にみな仏陀たることができるという妙理を示す。) *9
こうした複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。
江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。
ちょっと注目したいのは、次の歌である。作者は前述した皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)。
春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)*10
子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院家の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神々の中の一柱となられた萬子媛は、子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。
マダムNの覚書 2017年10月21日 (土) 19:15、2018年1月14日 (日) 21:25