マダムNの神秘主義的エッセー

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89 祐徳稲荷神社参詣記 (9)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』

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出典:Pixabay

萬子媛が今なお生き生きとしてオーラの威光に満ち、神社という形式を最大限に活用して毎日あの世からこの世に通い、千手観音のようにボランティア集団の長として活動なさっていることがわたしにわかるくらいだから、神秘主義的感性に恵まれた人であればどなたにもわかることではないだろうか。

しかしながら、肉身としての萬子媛は宝永二年閏四月十二日(1705年6月1日)に逝去された。祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、次のように書かれている。「齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました」*1

 

鹿島藩日記 第二巻』に記録されている萬子媛の死の経緯

祐徳博物館の女性職員は、石壁社の解説にある寿蔵で萬子媛が断食の行を積まれたことは間違いないです――とご教示くださった。

そして、「萬子媛の死の経緯については、鹿島藩日記に書かれていると思います。ちょっとお待ちください」とおっしゃって、全五巻中、何巻にその記述があるか確認してくださった。

三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に該当する記述があるということだったので、その巻を注文した。

萬子媛は、身体が弱ってからも、断食の行を続けられたのかどうか。断食の行が御老体に堪えたのかどうかもわからない。

いずれにしても、萬子媛*2は宝永二年三月六日ごろにはお加減が悪かった。それからほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」*3と記されるまで、萬子媛の容体に関する記述が繰り返されている(『鹿島藩日記 第二巻』366~398頁)。

この「今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」という藩日記からの抜粋は、郷土史家の迎昭典氏からいただいた資料の中にあった。

鹿島藩日記 第二巻』にははっきりと「御病気」という言葉が出てくるから、萬子媛が何らかの病気に罹られたことは間違いない。

そして、おそらくは「断橋和尚年譜」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の断橋和尚の追悼詩に「末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと」*4と描かれたように、一進一退を繰り返しながら、最期は昏睡状態に陥り、そのまま逝かれたのだろう。

鹿島市民図書館の学芸員は取材の中で「石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います」*5とおっしゃったが、現在の萬子媛の活動を考えると、観音様のようになることを一途に祈念しつつの断食行であり、死であったに違いない。

また、学芸員は「尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった」*6とおっしゃった。

祐徳院に所属していた尼僧達に関する学芸員のお言葉から、わたしはエッセー 71 に書いたことを思い出した。

萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧達ではないかとどうしても思えてくるのだ。萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ」*7

学芸員のお言葉は、わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛とその周囲にいる人々の雰囲気に符号するものがある。中心的役割を果たしている人々を囲むようにボランティアなさっている方々はもっと沢山いらっしゃるように感じられるのだが、あの世で新たに参加なさった方々なのだろうか。

一進一退を繰り返した病状、殿様からの差し入れ

萬子媛の病臥から死に至るまでの経緯を前掲書、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(鹿島祐徳神社 宮司・鍋島朝純、1979)で辿ってみたい。

前述したように、『鹿島藩日記 第二巻』には、宝永二年三月六日(1705年3月30日)ごろから閏四月十日(同年6月1日)逝去の記述がなされるまで、ほぼ毎日、萬子媛の病気に関する記述が繰り返されている。

同年の三月二十六日の日記に、二十四日からの石丸作佐衛門という人の手紙が写されていて、萬子媛の病気や食欲について知ることができる。

この間より御心持御かろみあそばされ、御快(おこころよく)なられましたとのこと――といったことが書かれているから、病状はよくなったり悪くなったりで、一進一退を繰り返した。

食欲について、「御食事四十め宛」とあるのだが、めは目盛りか? 宛は「数量を表す名詞に付いて、…あたり、…について、の意を表す」接尾語か?

御腫気とは浮腫のことか?

同石丸作佐衛門という人の手紙の写しに「御風気」とあり、御風気(ごふうき)とは風邪のことだから、高齢になっても断食行などは続けていられたのだろうが、加齢から体が弱ってきているところへ風邪に罹って、それがなかなか回復しないまま、肺炎で亡くなられたのではないだろうか。現代でも、肺炎で亡くなる高齢者は多い。

日記からは、花山院家や英彦山との交際の様子もわかる。萬子媛の姉が英彦山座主に嫁いでいた。萬子媛の父や姉弟が死去した後も、滞りなく交際は続いていた。*8

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。萬子媛の義理の息子である鹿島藩第四代藩主・鍋島直條は既に四月三十日(5月22日)江戸で亡くなっていたのだが、郷土史家の迎昭典氏がいただいた資料の中でお書きになっていたように、まだ鹿島ではそのことを知らなかったことがこの日の日記を読むと判明する。

同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物の重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時、亡くなった。

ここでいわれている殿様というのは、隠居している萬子媛の夫、鍋島直朝のことだろう。前述したように、鍋島直條はこのとき奇しくも鹿島鍋島家から遠く離れた江戸で亡くなっていたからだ。

殿様からの差し入れは、祐徳院に入った後も、萬子媛がどれほど濃やかに鹿島鍋島家から見守られていたかがわかる記述の一つであるように思う。

また、萬子媛の実家を継いだ弟の花山院定誠が、萬子媛の亡くなる前年に亡くなったことが日記からわかる。萬子媛にはショックだったのではないだろうか。

萬子媛を慕う義理の孫娘、お幾様

萬子媛が病気になってから、頻繁に「お幾様」という名前が出てくる。鍋島直條女とあるから、このお幾様は萬子媛の義理の息子の娘で、すなわち義理の孫娘に当たる。お幾様が萬子媛を心配していた様子が日記から伝わってくる。

鍋島直條(1655 - 1705)は51歳で亡くなり、家督を継いだ五男、直堅(1695 - 1727)は病弱だったらしく、33歳で早世している。

直堅の母違いの姉が「お幾様」ではないかと思うが、弟との年齢差はかなりあっただろう(直堅の母は側室から昇格した継室・中野氏である)。

直條の結婚は寛文11年(1671)、17歳のときで、相手は佐賀藩主光茂の養女(蓮池藩鍋島直澄の娘)千代、19歳である。直條夫人・千代は元禄元年(1688)、36歳で出産後に亡くなっている。千代のこの末の子もほどなく亡くなった。第二女が既に天和二年(1682)、亡くなっている。

お幾様が長女だったとすれば、早ければ結婚の翌年くらいに生まれ、遅ければ第二女が生まれ亡くなった前々年くらいの生まれになるから、萬子媛が亡くなったとき、25歳~33歳だろうか。

萬子媛の修行期間は62歳からの18年間に及ぶから、萬子媛の出家時、お幾様は7歳~15歳。子供のころ可愛がられ、萬子媛の出家後は時々会いに行っていたとすれば、慕うのも頷ける。

わたしは萬子媛をモデルとした歴史小説の第一稿で、萬子媛を慕い、お産につきそう若い女性を描いた。義理の娘に設定したのだが、実際には娘ではなく孫だったとはいえ、萬子媛を慕う「お幾様」のような女性が本当に存在したことに驚きを覚えた。

他にも、萬子媛が筝を奏でる情景が頭に浮かんだので、その場面を書いたら、実際に萬子媛は筝を弾かれたようで、遺愛の琴(筝)を祐徳博物館で観ることができる。

萬子媛が可愛がり、萬子媛を慕う若い女性が萬子媛に付き添っているところがしきりに頭に浮かび、病気はちょっと思いつかなかったので、お産ということにしたのだった。

実際の萬子媛も、お幾様を可愛がられたに違いない。わたしが神秘主義的感性で捉える萬子媛はそのような格調高い慈母のような雰囲気を持つかたなのだ。

だからわたしも――お幾様には負けるかもしれないが――あの世のかたであるにも拘わらず萬子媛が大好きになってしまった。そうでなければ、書き慣れない歴史小説など書こうとは思わない。児童小説の続きを書く。

お亡くなりになった神智学の先生も大好きなので(先生は多くの会員から慕われていた)、ちょっと困るくらいだ。百合も薔薇もたまらなく好き、という感じだろうか。

護摩堂での二夜三日の祈禱を命じたり、お見舞いに行く折に中尾地蔵へも参詣したり、しきりに人をやって容体を尋ね(萬子媛逝去の前日も)……お幾様は萬子媛のことが心配でたまらなかったのだろう。

父と義理の祖母を一度に亡くしたお幾様……可哀想だ。萬子媛と寝食を共にして修行に明け暮れた筋金入りの尼僧達とは違って、一般的な女性だったと思われるだけに、なおさら気の毒になってしまう。

江戸時代のお産や子育て

ここで、第一稿を書くときに調べた江戸時代のお産や子育てに触れておきたい。

現代医学の恩恵を受けられなかった江戸時代、当時としては超高齢出産だったはずの37歳での萬子媛の初産(結婚が初婚だったとの前提での話になる)は大変だっただろうと思う。

江戸時代の初産は十代が普通だったという。

せっかく生まれた長男は子供のときに、次男も成人したとたんに亡くなり、そのことが萬子媛の剃髪につながったことを考えると、妊娠、出産、子供の成長という流れを小説では何らかの形で描かなくてはならないと考えている。

江戸時代のことは、サイト「江戸時代のちょっとびっくりな文化や生活」*9に詳しい。

それによると、出産は完全に女性たちの行事であり、女性たちの協力によってなされた。血は汚れであったので、生まれそうになると、妊婦は産屋〔うぶや〕に行き、出産は座って天上からぶら下げた縄につかまって行われた。介助するのは産婆である。

中江克己『江戸の躾と子育て』(祥伝社新書:祥伝社、2007)によれば、無事に出産したとしても病死することは珍しくなかったが、何と出産後は、産椅(背もたれと肘掛けのついた椅子のようなもの)に七日間、眠らないようにして(身内の女たちが交代で付き添った)正座していなければならなかったという。

この俗習は勿論罰ゲームではなくて、産後の女性の血ののぼりを予防するためだったというが、それで命を落とす女性もいたらしい。

わたしはこの罰ゲーム、否、江戸時代的血ののぼりの予防法を書きたいということもあって、第一稿ではお産を描いたのだった。

前掲書『江戸の躾と子育て』には、興味深いことが色々と書かれている。

江戸時代、教育は神聖なものとされていた。胎教も熱心に行われていて、育児書も沢山出ていたそうだ。

江戸の子供は5~8歳で私塾である寺小屋に入門し、読み、書き、そろばんを習った。識字率は男女共70~80パーセントで、武士階級はほぼ100パーセント。ヨーロッパ諸国より進んでいた。

江戸の人々は知的だったのである。

入学金には相場がない――というより、「当時、『教える』という行為は、お金に換えることができないほど神聖なもの、と考えられていた。それだけに『読み、書き、そろばん』を教える報酬として、師匠がお金を要求することはなかった」*10

親たちは「お礼」として入学金や月謝を払ったり、贈答品を送ったりした。それらを収めないからといって、師匠が催促することはなかったらしい。

神智学協会の会員だった鈴木大拙が、動画「鈴木大拙の講演 最も東洋的なるもの」で江戸時代――から明治の初めごろの話――の医師は治療代を催促しなかった*11と話してい.る。寺小屋の師匠の場合と同く、大様な雰囲気があったようである。


1英語を学び始めた頃の疑問

子供たちの遊びは創意工夫に富んでいた。正月の遊びなどに今も残っている。

江戸時代といっても長いが、萬子媛の子供が長男は子供の頃に、次男は成人したとたんに亡くなったことから見てもわかるように医療はあまり頼りにならなかった。

幼児の病気では、疱瘡(天然痘)、麻疹(はしか)、水疱瘡(水痘)が怖れられ、この三つは「おやく」といわれた。おやくのやくは「厄」。死亡率は高かった。親たちは七五三の祝いをして子供の健康と成長を祈らずにいられない。

乳児の死亡率は、一説では全死亡率の70~80パーセントを占めていたという。お乳が出ないと大変である。当時の日本人に牛乳を飲む習慣はなく、お乳が出なければ「もらい乳[ぢ]」しなくてはならず、困って鰹節をしゃぶらせたりしたらしい。

萬子媛の死にかたについての私見

わたしは萬子媛が断食入定ではなく、一般的な死にかたを選ばれた――と推測できることが嬉しい(勿論、断食入定ではなかったとの断定はできない)。

萬子媛に興味が湧いたのは断食入定という過酷な死にかたをなさったという伝承に接したからだったが、わたし自身は死に至るまで断食を続けるような過激な修行を不自然、不要なことだと思っている。

それに、高雅でありながらとても率直なかたである萬子媛がわたしの思い込みに違和感を覚えていられる感じが神秘主義的なわたしの感性にそれとなく伝わってきて、事実はどうであったのか知りたくなり、『鹿島藩日記 第二巻』を購入したのだった。購入して、よかった。

次のエッセー 90 で、葬礼の模様と祐徳院に残された尼達の様子を見ていきたい。

*1:祐徳稲荷神社「石壁社・水鏡」 < https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php >(2018年11月20日アクセス)

*2:鹿島藩日記 第二巻』では、萬子媛のことは一貫して「祐徳院様」と記されている

*3:三好編纂,1979,p.398

*4:井上ほか編,2016,p.92

*5:エッセー 88 「祐徳稲荷神社参詣記 (8)核心的な取材 其の壱(註あり)」参照

*6:エッセー 88 「祐徳稲荷神社参詣記 (8)核心的な取材 其の壱(註あり)」参照

*7:「71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日」< https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355 >

*8:花山院家系図((花山院家(清華家)「公卿類別譜(公家の歴史)」
< http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm >(2018年11月21日アクセス)によると、定好には男子5人、女子3人いて、真ん中の女子が萬子媛である。「鍋嶌和泉守室」とあり、嶌は島で鍋島。和泉守は官位。室はその妻のこと。

忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家二十四代当主となった。権大納言武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692)、52歳で出家し、宝永元年(1704)に死去した。

円利は禅寺に入った。

堯円は浄土真宗の寺に入り、第16世大僧正となった。

姉は、豊前国英彦山を統括する首席僧、亮有の妻となった。亮有の父有清の妻となったという異説もあるようだ。有清も英彦山座主である。元禄10年9月18日(1697年11月1日)、死去。
 ※村上竜生『英彦山修験道絵巻』(かもがわ出版、1995)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作である。絵巻が作られたのは有誉が座主のときで、『英彦山修験道絵巻』には「有誉の母は花山院定好の娘」と書かれている。

妹は惣持院の尼となった。

*9:< http://edojidai.info/syussann.html >(2018年11月22日アクセス)

*10:中江,2007,p.146

*11:1英語を学び始めた頃の疑問「鈴木大拙の講演 最も東洋的なるもの」< https://youtu.be/ULx4nJW5cXE >(2018年11月22日アクセス)