マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

90 映画「くるみ割り人形と秘密の王国」とホフマンの原作

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出典:Pixabay

 

映画「くるみ割り人形と秘密の王国」

家族で、映画「くるみ割り人形と秘密の王国」を観た。

くるみ割り人形と秘密の王国
原題:The Nutcracker and the Four

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監督 ラッセ・ハルストレムジョー・ジョンストン
脚本 アシュリー・パウエル
原作 E.T.A.ホフマンくるみ割り人形とねずみの王様』
製作 マーク・ゴードン、ラリー・フランコ
製作総指揮 リンディ・ゴールドスタイン、サラ・スミス
出演者 キーラ・ナイトレイマッケンジー・フォイ、ミスティ・コープランドヘレン・ミレンモーガン・フリーマン
音楽 ジェームズ・ニュートン・ハワード
撮影 リヌス・サンドグレン
編集 スチュアート・レヴィ
製作会社 ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、マーク・ゴードン・カンパニー
配給 ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ
公開 2018年11月2日(米国)、2018年11月30日(日本)
上映時間 100分
製作国  アメリカ合衆国*1

エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン『クルミわりとネズミの王さま』(Nußknacker und Mausekönig)の主人公の名はマリー。七つである。クララちゃんという新しい人形を持っている。成人近い年齢に見える映画の主人公とは年齢的にも差がありすぎるし、性格も異なっていて、別人の感がある。

デュマ父子の合作・翻案による童話を原作としたチャイコフスキー作曲のバレエ「くるみ割り人形」(2幕3場)の主人公の名はクララ。

映画「くるみ割り人形と秘密の王国」の主人公はクララ。クララの亡き母の名はマリーである。人形の国を娘クララが訪ねる、『クルミわりとネズミの王さま』の後日談といった体裁だが、バレエの場面が出てきたりもして、何もかもごっちゃにした挙句、原作にあるよいところは無視といった映画作りとなっていた。プリマとくるみ割り人形は、なぜ黒人なのだろう?

ハリウッドは某国にのっとられたという話だが、某国の提案する「多文化共生」(自分の国では他民族は浄化政策の対象)や、過剰防衛を批判する場面(自分の国では軍備増強を加速)があったことからも、なるほどと思わせられる。実に嫌らしい。

白人が登場するのが自然である場面でわざとらしく有色人種を出さずとも、ホフマン原作の人形の国では世界の様々な人々が出てくる。原作通りに描けばいいだけだ。

此の世が此の世である限り、完全な世となることはありえない。そのときの限られた条件下で、切実な願いや理想をこめてつくられるのが芸術作品なのだ。現時点から過去につくられた作品を断罪して手を加えたら、歴史と絡み合った精緻な芸術作品は壊れてしまう。

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出典:Pixabay

ホフマンの原作は、結構不気味ともいえるお話

原作は結構不気味ともいえるお話で、マリーが永遠に人形の国に旅立ってしまう結末は殊にそうだ。現実的に考えれば、マリーは完全に頭がおかしくなってしまったか、死んでしまったか、そのどちらかの成り行きを辿った可能性が高い。子供はそうした部分は気にとめないだろうが、大人が読むと、色々と考えさせられる作品なのである。

マリーは、勇猛果敢な映画のクララとは違って、すぐに怪我をしたり気絶したりするひ弱な七つの女児である。家族全員(父、母、兄フリッツ、姉ルイーゼ)が、仕舞いにはマリーを人形の国に誘った当のドロッセルマイアーおじさんまでもが、マリーの「空想」を冷ややかなまでに否定する。

両親は殊に、マリーがあちらの世界――単なる空想ではない狂気の世界、あるいは死後の世界――へ行ってしまうことをとても心配している様子が窺える。両親はマリーをこちらの世界へ連れ戻そうと懸命である。

ドロッセルマイアーおじさんの豹変は謎だが、やりすぎたと思ったのかもしれない。純粋無垢なマリーに別世界のすばらしさを教えるつもりが、過度にのめり込ませる結果となってしまい、内心慌てたのではないだろうか。

ホフマンの童話には、現実世界が別の世界観によって侵食される不気味さがある。それがあるからこそ、わざとらしい教訓があちこちに出てきて底の浅さを露呈してしまう映画とは異なる魅力があるのではないだろうか。

ホフマンは現実世界も別世界も同等の生々しさで描き、こちらの世界もあちらの世界も否定しなかった。そして、あちらの世界とこちらの世界は相互作用があるというのがホフマンの作品を通して読みとれる主張である。

マリーがあちらの世界から被った損害は生々しく表現されている。

人形とネズミの大群との物凄い戦いに巻き込まれて負傷したマリーが、深い、死んだような眠りから目覚めると、側に外科医のヴェンデルシュテルン先生がいて、母親がいう。E・T・A・ホフマン(上田真而子訳)『クルミわりとネズミの王さま』(岩波少年文庫 - 岩波書店、2000)から引用する。

あなたったら、ゆうべ、夜中までお人形たちと遊んでいたのね。そして、ねむくなってうとうとしていたところへ、ネズミが一匹走ってきて、びっくりしたんでしょ。ふだんはネズミなんて、いないんだけれど。それで、どきんとした拍子に、戸棚のガラスにひじがあたったのね。だから、腕にそんなけがをしたのよ。いまヴェンデルシュテルン先生が、傷にささったままになっていたガラスのかけらをとってくださったの。もしガラスが血管を切っていたら、あなたは腕が動かなくなっていたか、わるくすると、出血多量で死んでしまったかもしれないんですって。
 お母さま、夜中に目がさめてあなたがいないのに気づいて、起きてあの部屋にいってみたから、よかったのよ。いってみたら、あなたはガラス戸棚のすぐそばで気を失ってたおれているじゃないの。血をいっぱい出して。びっくりして、お母さままで気を失うところだったわ。あなたはたおれているし、そのまわりにはフリッツの鉛の兵隊やらお人形やら、こわれた人形クッキーやらが、いっぱいちらばっているし。クルミわりは、あなたの血まみれになった腕の上にたおれていたわ。そして、ほんのちょっとはなれたところに、あなたの左の靴がころがっていたの。*2

母のいう靴とは、マリーがクルミわりを助けるために、すすりあげながら無我夢中で左足からとってネズミの山の真ん中にいる王めがけて投げつけた記念すべき靴だった。

原作のストーリー

ネズミが狼藉を働くようになったきっかけは、ネズミリンクス夫人とピルリパート王の后[きさき]のやりとりに端を発していた。

大ソーセージ・パーティーの日に、ソーセージ好きの王の要望で后自らソーセージ作りに勤しんでいると、ネズミリンクス夫人が現れてソーセージを少し分けてほしいという。

かまどの下に大きな宮廷を構えているネズミリンクス夫人は、ピルリパート王の家族とは親戚で、自分はネズミ―リエンの女王だといい張っていた。

后はネズミリンクス夫人を女王だとも妹とも認めてはいなかったが、気立てがよかったので、ソーセージを御馳走することにした。すると、ネズミリンクス夫人の親戚中の者らが続々と出てきて、ソーセージの脂身に襲いかかった。

王は、ドロッセルマイアーおじさんと同じ名を持つ宮廷の時計師であり秘薬調合師でもあるドロッセルマイアーに、ネズミリンクス夫人とその一族を永久に宮殿から追い払うよう命ずる。

ネズミ退治は成功し、ネズミリンクス夫人は残った僅かの身内を連れて立ち去ったのだが、その後后に現れて、姫がネズミの女王に噛み殺されないように気をつけな――と脅す。

王はそうならないように、ネコのうなり一族を枢密参事官に任命して、危機一髪で難を逃れる。しかし、天使のようにあどけなかったピルリパート姫は、ネズミリンクス夫人の呪いで物凄い容貌に変わり果てたのだった。

姫をもとの姿に戻すことができなければ、ドロッセルマイアーを死刑に処すと王がいう。ドロッセルマイアーは原因を探るために姫を分解してみる(ピルリパートは機械じかけのからくりの世界である)。

ドロッセルマイアーは親友の宮廷天文学者の助けを借りて、姫の星を占い、姫の魔法はクラカトゥクという特殊なクルミを特殊な男の手で食べさせればとけるとわかった。

二人は困難な旅に出、その特殊なクルミニュルンベルクに住むドロッセルマイアーのいとこが持っているとわかり、特殊な男はそのいとこの息子であることがわかる。

姫がその若いドロッセルマイアーに渡されたクルミを食べると、魔法がとけた。

すると、ああ、なんというふしぎ! みにくい姿はたちどころに消えて、そこには天使のような美しい乙女が立っていた。顔は、ユリの白とバラの赤の絹糸で織りなしたよう、目はかがやく青空。ゆたかな巻き毛は金の糸さながらに波うっていた。*3

しかし、魔法をとくための一環である引き際の作法がネズミリンクス夫人の妨害で完了しなかったため、今度は若いドロッセルマイアーが、魔法がとける前の姫そっくりの醜い容貌に変わってしまう。

ネズミリンクス夫人は若いドロッセルマイアーの靴のかかとに当って負傷し、それが致命傷となる。彼女は、断末魔の脅しの言葉をいって絶命した。

ネズミリンクス一族の狼藉はこのときから続いていた。若いドロッセルマイアーが、マリーの助けを借りて自分の軍勢をネズミの大軍と闘わせ、勝利するときまで……

映画では、原作のネズミリンクス夫人と思しきマザー・ジンジャーがなぜ王国に敵対しているのか、よくわからないままストーリーが進行する。獅子身中の虫で、本当の敵は王国内部に存在していたことがわかると共に、マザー・ジンジャーは実は味方だったというオチ。全くもって、どうでもいいお話となっている。

神秘主義者の難しい立脚点と要求されるバランス感覚

原作に登場するドロッセルマイアーおじさんの態度の曖昧さ――あちらの世界にこちらの世界の人間を連れ去るエージェントのようにすら見える――は、おそらくホフマンその人の曖昧さであって、どちらの世界も真なることを知っている神秘主義者の難しい立脚点を表わしていると見ることができる。

それを裏付けるようなホフマンの言葉が、ホフマン(大島かおり訳)『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』(光文社古典新訳文庫 - 光文社,2009)の解説で紹介されている。

自分はあまりにも多くの現実にからめとられている、と彼は言う。そして「髙い領域へ人を導く天国の梯子[はしご]はその脚を現実生活の中に据えていなければならない」*4

そのためには、バランス感覚が要求されるだろう。

一口であちらの世界といっても、低級な世界から高級な世界まで――ぴんからきりまで――性質の異なる精妙な世界が存在するからである。

物質界に一番近い目に見えない世界をブラヴァツキーの神智学ではアストラル界、あるいはカーマ・ローカというが、スコラ哲学ではリンボ界、昔の言葉で黄泉の国ともいう。アストラル界は主観的空間の中にあり、五感を超えたものだが、それでも存在しているとブラヴァツキーは解説している。マリーが入り込んだ魅惑的で危険な世界はこのアストラル界を連想させる。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995・改版)の用語解説「幻覚(Hallucination)」には注目すべき解説がある。省ける部分などないのだが、長いので、部分的に引用する。

幻覚(Hallucination)
(前略)様々な幻覚を起こすのはこのアストラル光の波動であるが、幻覚は医者が説明するように、いつもただ無意味で空想的な夢というわけではない。存在しないもの、つまりアストラル波動に印象づけられていないものは、誰も見ることができない。(中略)酔っぱらいも透視家も、霊媒もアデプトも、それぞれのヴィジョンをアストラル光の中で見ているのである。ただ、酔っぱらいや、狂人や、トレーニングを受けていない霊媒や脳脊髄炎の患者は、ヴィジョンをコントロールすることができないので、仕方なしにごちゃまぜのヴィジョンを無意識のうちに呼び起こしているが、一方、アデプトやトレーニングを経ている透視家は、このようなヴィジョンを選択し、コントロールして見ることができる。(後略)*5

アストラル光とは何であるか、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(神智学協会ニッポン・ロッジ 竜王文庫内、1995)の用語解説「アストラル光(Astral light))より引用する。

アストラル光(Astral light)
 物質の地球を取り巻くエネルギー場。(中略)二面の鏡のように、上の世界を反映すると同時に、物質界に起こることをすべて記憶する。一般の透視家が見るいわゆる「アカ―シック・レコード」は、アストラル光に記録されたものである。そうしたイメージは幻想的で人間の心を迷わせるようなもので、またアストラル光の波状運動は蛇の動きに似ているので、「大蛇」や「サタン」と呼ばれる。*6

文学もそのなかに含まれる芸術と人間との関係をいえば、上質の芸術作品がもたらしてくれる美を通して高級界との絆を深める情操を育むことこそが大事で、刺激が強すぎる影響力からはマリーのような児童の場合、保護してやるべきではないだろうか。

神秘主義的観点から見れば、これはあくまでわたしの考えにすぎないが、ドロッセルマイアーおじさんは無責任というだけでなく、危険な人物ですらあると思う。ホフマンはなぜあのような結末にしたのだろう?

これを読んだ用心深い母親は、ドロッセルマイアーおじさんのような人物にはちょっと警戒心を働かせるようになるのではないだろうか。ただ、前述したように、やりすぎたと思ったからこそ、ドロッセルマイアーおじさんはマリーの「空想」を否定したに違いない。

このような問題を考えるとき、助けになるのは神秘主義で、それも近代的な言葉で明快に解説されたブラヴァツキーの著作ほど頼りになるものはない。

ホフマンの作品には美が溢れ、高い世界へのあこがれをそそるものがあるという点で貴重だと思うが、現代日本で出版されている子供向けの著作には有害と思えるようなものがずいぶんあるように思えて、危惧せざるをえない。

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ベルリン時代に描かれた自画像(1810年-20年ころ)
出典:Wikimedia Commons

ホフマンの生涯

前掲書『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』の「ホフマン年譜」によると、ホフマンは1776年1月24日、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクに生まれた。父は上級裁判所弁護士、母は法曹人の家庭の出である。

二歳のときに両親が離婚した。精神を病んだ母と共にその実家に引きとられ、法律家で独身の伯父と、芸術に理解のある伯母に養育された。

音楽、絵、法律を学び、18歳(1794)で音楽教師を始め、人妻との恋。19歳で法曹界に入っている。ロマン主義運動にも触れた。

26歳(1804)のとき、高官たちの戯画をカーニヴァルでばらまいた元凶として当局に睨まれ、左遷。ボーセン市役所書記の娘と結婚。

28歳からの三年間に「音楽協会」を設立し、歌芝居の作曲・上演、自作交響曲の指揮者など務めるが、1806年、ナポレオン戦争プロイセンが敗れるという政変に遭う。職も住む家も失った。

31歳(1807)のとき、職を求めて単身ベルリンへ。残してきた妻は重病、二歳の娘が死去した。32歳、バンベルク劇場音楽監督に就任するが、デビューは失敗。33歳で初の文学作品『騎士グルック』が「一般音楽新聞」に掲載される。以後、音楽評論を寄稿。

34歳のときにバンベルク劇場の支配人補佐となり、劇場の黄金期を迎えた。作曲家・舞台装飾係として活躍。36歳で劇場を去り、歌唱レッスンの弟子ユーリア・マルクへの恋と貧困に苦しみながらも創作に打ち込んで『ドンファン』を執筆、オペラ『ウィンデーネ』の構想を練る。

37歳(1813)、ライプティヒ・ドレスデンの巡回オペラの指揮者に就任。フランス軍とドイツ・ロシア軍の対峙する状況下での音楽活動であった。『黄金の壺』の執筆に着手。

38歳でオペラ団を解雇され、風刺漫画・作曲・文筆活動に集中した。プロイセン法務省に復職、ベルリンへ。音楽評論『クライスレリアーナ』各編、長編小説『悪魔の霊薬』の執筆。

40歳(1816)で、大審院判事に任命された。オペラ『ウィンデーネ』が王立劇場で初演され、成功。作曲家としての名声、作家としても売れっ子となり、初めて経済的に安定した。『悪魔の霊薬』第二巻、『夜景作品集』第一巻出版。

41歳のとき、王立劇場が火災で消失。『ウィンデーネ』の上演が途絶えた。43歳(1819)で大病を患うも、『ゼラーピオン同人集』第一、二巻。『ちびのツァッヘス』、『マドモワゼル・ド・スキュデリ』他出版。扇動的秘密運動調査のため、国王直属委員会のメンバーに任ぜられる。

44歳、「体操の父」ヤーンへの告発の無効を宣し、当局と対立。『ゼラーピオン同人集』第三巻、『ブランビラ王女』、『牡猫ムルの人生観』(第一部)などを出版。

46歳(1822)、執筆中の『蚤の親方』の風刺的挿話が警察省長官の逆鱗に触れ、原稿の押収、審問が要求されたが、ホフマンの病状悪化で延期。『蚤の親方』刊行。最後の短編『隅の窓』と『無邪気』の口述筆記後、6月25日死去。(以上、ホフマン,大島訳,2009,「ホフマン年譜」pp.406-410参照)

ウィーン会議後の政府の弾圧政策に抗して、ホフマンは厳正な法の立場を守り続けたそうだが(ヤーンの審理での判断もその一つ)、ミステリータッチの小説『マドモワゼル・ド・スキュデリ』の緻密、華麗な作風からもその仕事ぶりが窺える気がする。

マドモワゼル・ド・スキュデリ』はルイ14世統治下のパリが舞台で、題材は歴史的事実からとられたという。火刑裁判所が出てくる。全く、ぞっとさせられる裁判所だ。

空想とはかくも豪奢なものとなりうるのか、と唖然させられる幻想小説『黄金の壷』。アトランティスや四大[しだい]の精霊など神秘主義者には馴染みのある素材が色々と出てくるが、素材負けしていず、神秘主義者ホフマンの面目躍如たる作品といってよい。

*1:くるみ割り人形と秘密の王国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年12月11日 15:47 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

*2:ホフマン,上田訳,2000,pp.63-64

*3:ホフマン,上田訳,2000,p.105

*4:ホフマン,大島訳,2009,「解説」p.392

*5:ブラヴァツキー,田中訳,1995,「用語解説」pp.30-31 

*6:ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1995,「用語解説」p.3