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57 ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ⑧吉永進一「近代日本における神智学思想の歴史」の中で印象操作される三浦関造

初出:b覚書,2016

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Free Images - Pixabay

 

吉永進一「近代日本における神智学思想の歴史」の構成から見ていこう。

吉永進一「近代日本における神智学思想の歴史」
『宗教研究』84 巻2 輯(2010年)
ci.nii.ac.jp/naid/110007701175  (2016/6/10アクセス)

漢数字を算用数字に変えさせていただく。

<論文要旨>
<キーワード>
前書きに当たる部分
一 メタフィジカル宗教
 1 欧米の歴史研究
 2 日本の歴史研究
 3 メタフィジカル宗教と神智学
二 日本の神智学の軌跡――1910年代から1960年代まで――
 1 明治から大正へ
 2 昭和期 三浦関造の神智学

ダウンロードした吉永のこの論文には参考文献が記されていないが、ダウンロード版では省略されているのだろうか。

参考文献が記されていないので、本文と注に出てくる著作以外は吉永が何を読んだのかが不明である。強引な辻褄合わせ、短絡的解釈などから、神智学に関してはまとめめいたものしか読んでいないのではないかとの疑いを覚える。

要旨からすると、ハネフラーフのエソテリシズム史とオルバニーズのメタフィジカル宗教史を日本の霊性宗教史に当てはめることができるかどうかを確認し、次に、アメリカのメタフィジカル宗教を瞥見した上で、明治・大正期の日本への神智学流入、ロッジ活動の失敗、出版での流布を紹介したあと、三浦関造に焦点をしぼるのだという。三浦関造は翻訳家から霊術家、そしてメタフィジカル教師へ変貌したのだそうだ。

ハネフラーフによると、19世紀のオカルティズムは18世紀以前のヨーロッパを中心としたエソテリズム(ネオプラトニズム、ヘルメス主義、カバラ占星術錬金術)の世俗化によって誕生したという。

占星術錬金術はヘルメス主義に含まれるのではなかったか?

ブラヴァツキーは神的な火を人類にもたらしたプロメテウスさながら秘教とされてきた知識を一般にもたらしたが、エソテリズムそのものは純粋に保たれている。世俗化したくてもできないものがエソテリズムなのだ。

その価値を感じるだけの感受性がない人々には、それが通じないだけの話である。間違った解釈がなされることも多々あるだろう。

オルバニーズのメタフィジカル宗教となると、もっとひどい定義で、オカルト全般を指す概念であるらしい。オカルトの意味もブラヴァツキーの定義などとは異なり、要するに何でもありということのようである。

何て無意味な考察なのだろう。何でもありの定義を無理に近代日本、特に三浦関造に当てはめ、当てはまらない――崇高な――面は平気で無視し、切り捨て、歪めようという意図しか感じられない論文なのであるから、たまらない。まさに現代日本における魔女裁判である。

「2 日本の歴史研究」で気になったのは、催眠術という用語である。桑原俊郎『精神霊動』に関する吉永の紹介ではずいぶん大雑把に使われているようだが、著者の定義がわからないので、そこにブラヴァツキーが定義する催眠術以外のものがどう含まれているのかは、実際に著作に当たるしかないようだ。

「3 メタフィジカル宗教と神智学」では、次の文章の意味がどうしてもわからない。

19世紀前半からの動きを追ってみると、催眠術からP・P・クインビーの精神療法とアンドリュー・ジャクソン・ディビスやスピリチュアリズムが出現し、前者の流れからはさらにクリスチャン・サイエンスのエディ夫人や、ニューソート運動の源となったエマ・カーティス・ホプキンズ、後者からは神智学が誕生している。*1

「前者」がどこにかかり、「後者」がどこにかかるのか、わからない。文章はさらに次のように続く。

これらの運動と、これらが折衷して誕生した運動の総称がメタフィジカル宗教である。*2

まさに何でもありのチャンコ鍋状態、もはや滅茶苦茶である。そして「メタフィジカル宗教の思想面は、神智学が重要な柱となっている」そうだが、話の流れからすると、チャンコ鍋の中では神智学が一番目立つ、というだけの話だろう。

メタフィジカル宗教で最も政治的な活動をした人物がウィリアム・ダドリー・ベリーであると吉永はいう。わたしはインドの切手にまでなったアニー・ベザントだと思うが。アメリカ人の中では、ということだろうか。

三浦関造がどう書かれているのか、見ていこう。

吉永は三浦関造の読書体験の断片を取り出して、それに固執する。三浦関造がそれらの著作を重要視していたからというよりは、吉永が重要視しているのである。

そうでなければ、モーリス・ドーリルとウィリアム・デッドリー・ペリー著作をことさらに強調する必然性がわからない。このような偏向した扱いは本来許されないはずである。

三浦関造の文章には様々な本からの引用、紹介がなされているし、旺盛な翻訳事業を見ればわかるように、翻訳するからにはそれらがまず熟読されたはずである。

三浦関造『至上我の光 第1号より第71号合本』(竜王文庫、1972)を見ると、確かにモーリス・ドーリルにはよく言及されていて、ドーリルが三浦関造にとって旬の人であったことがわかる。

ドーリルの著作のうち治療に関する『療法の真義』(林鐡造訳、霞ヶ関書房、1977)をわたしは昔、会員の一人から貰った。その本では、健康を向上させるための様々な考察と助言が物心霊の三方面からなされている。

会員の中には参考にしている人も多かったのではないかと思う。三浦先生がイエスさながらに会員たちやその家族などの病気を癒されたことが合本を読むとわかる。そのやり方が当人の潜在力を惹き出すようなものであったこともわかる。

ウィリアム・デッドリー・ペリーをわたしは知らなかった。合本からもまだ見つけられないでいる。

吉永によると、昭和7年に出版された『心霊の飛躍』(日東書院、1932)にペリーからの手紙が引用されているそうだ。

竜王会東京青年部『総合ヨガ用語解説集』(竜王文庫,1980)の「三浦先生 訳・著書一覧 年代順」には「三浦先生の訳,著述作品は約七十余点にのぼると思われますが,震災,戦災,住居移転等で散逸し,その多くは,現存しておりません。ここに掲載したものは,保存されているもの,発行が確認されたもの(発行年不明のものを含む)を,ほぼ年代順に列記したものです」として訳・著書が紹介されている。

この一覧の中に『心霊の飛躍』は見当たらない。

豊富な読書体験の中から三浦関造がとりわけ愛読したのは新約聖書、『バガヴァッド・ギーター』、パタンジャリー『ラジャヨガ経典』、法華経、H・P・ブラヴァツキー『沈黙の声』ではないだろうか。合本にもよく出てくる。

わたしが竜王会に入会したのは30年以上前にさかのぼるが、三浦先生の著作の中でも『至高者の歌』(ヨガ聖典バガヴァッド・ギーター)、『大直感力』(総合ヨガの理論と実践。パタンジャリーのラジャヨガ経典)、H・P・ブラヴァツキー『沈黙の声』は特によく読まれているような雰囲気があり、必読書だと感じていた。

ところが、わたしは『大直感力』はざっと読んだ程度、『至高者の歌』、『沈黙の声』 は購入すらしていず、必読書の読書をさぼっていた。

弁解になるが、大学時代から新約聖書プラトンの作品と同じくらい長尾雅人編集『バラモン経典 原始仏典(中公バックス 世界の名著1)』 (中央公論社、1979)を愛読しており、それには9編のバラモン教典と4編の原始仏典が収録されていて、バラモン教典9編の中に「バガヴァッド・ギーター」もパタンジャリ 「ヨーガ根本聖典」も含まれていたのである。

『沈黙の声』はジェフ・クラーク訳と星野未来訳でつい最近読み、そのすばらしさに打たれると共にもっと早く読まなかったことを後悔したのだった(エッセー52 *3参照)。三浦先生が必読書中の必読書を示してくださっているのがわかった。

パタンジャリーという三浦先生の訳は『バラモン経典 原始仏典(中公バックス 世界の名著1)』 ではパタンジ'ャリとなっている。ウィキペディア「ヨーガ」ではパタンジャリとなっていた。ウィキペディア「ヨーガ」を通読すると、次のような箇所に目が留まった。

オウム真理教
(……)オウム真理教ではヨーガによるクンダリニー覚醒の実践が中心的な位置を占めており、沼田は、「ヨーガによる自己変容と しての解脱体験こそ、80年代前半の麻原の宗教的アイデンティティの柱の一つとみなしうる」と述べている。本来ヨーガや瞑想によって常人にない能力を得る ことは否定されてはいないが、オウム真理教の信者には超能力を獲得することを主な目的とする者も少なくなかった。

 ※出典は沼田健哉 「マインド・コントロールとセルフ・コントロール : オウム真理教事件と関連して」 桃山学院大学社会学論集 29(2), 61-94, 1995-12-20 桃山学院大学*4

吉永の次の文章を、わたしはエッセー40 *5で疑問視した。

『至上我の光』59号(1959年2月1日)には「印度ヨガの危険と建て直しについて」という記事を載せ、インドのヨガは堕落しており、アリス・ ベイリー、ポール・ブラントン、ドーリルを学ぶことが重要であると力説している。その一方で同号に「いかがわしい誤謬だらけの西洋模倣ヨガの本を悉く棄ててしまいなさい」と、まったく矛盾した主張をしている。*6

ヨガの基本を学んだ者であれば、クンダリニと呼ばれる――蛇の火とも呼ばれる――宇宙エネルギーの一種が脊椎基底に眠っていることを知っている。吉永が引用した三浦関造の文章にはクンダリニというヨガの用語は出ていないが、クンダリニを無理に目覚めさせようとするタイプのハタヨガの危険性を警告したものなので、竜王会東京青年部『総合ヨガ解説集』から引用しておきたい。

クンダリニ Kundalini
 宇宙エネルギーの一種で,一切生類を養い,人間を超越たらしめる。「蛇の火」とも言い,脊柱基底の中心内に三つ半とぐろ巻いて眠っている竜のようなかっこうをしている。クンダリニは精神的進歩に応じて自然と目覚め,上昇するのが最っとも安全であり,無理に行法等で目覚めさせようとする破壊エネルギーとなり,その人の進歩に支障をもたらす。詳細は『クンダリニ』『大直観力』その他参照。*7

「詳細は『クンダリニ』『大直感力』その他参照」とあるように、この警告は三浦関造著作でも機関誌でも繰り返し出てくる。だから、わたしはエッセー40 *8で次のように指摘したのである。

1959年時点でのインドのヨガは三浦関造の目に堕落したものと映っていたようだが、それはハタヨガに傾斜したインドヨガを批判したものであることが『至上我の光』59号を読めばわかる。吉永には単に読解力がないだけなのか、曲解しているのかわたしには不明である。
59号で言及されたアリス・ベリー、ブラントン、M・ドウリルについては、いずれもハタヨガの危険性、西洋で出版され日本人の訳している誤謬だらけのヨガの本に対する警告との関連で出てくるのである。上記三者はいずれも著作の中で、当時のインドのヨガの堕落や西洋で出版されている誤謬だらけのヨガ本の危険性を警告していた。

(……)ヨガを恣意的に解釈し、それだけの準備が整っていないにも拘わらず、ヨガの行法を自己流に採り入れて遂には自己崩壊したオウム真理教の麻原だったが、ヨガに関しては、そのようにならないようにと竜王会ではずっと警告が続けられてきた。

三浦関造の文章をあら探しし、超次元的空間の世界といわれているシャンバラに関して、物質的場所としての――チベットの首都ラッサの真下なる地下に在るという――シャンバラについての文章を採り上げるのであれば、『至上我の光』56号(1958年11月1日)の次の文章も採り上げなければ整合性がとれず、偏向した解釈になってしまうはずである。

それでは真の法華は、何処に秘蔵してあるのか? それが大問題である。真の法華経はシャンバラにしまってある。シャンバラは私共の頭の中心に在る。マニが光かがやけば、真の法華経が展開するという意味を仏陀は暗示されたのである。即ちマニヨガによって、真の法華経を凡ての人が、自我の内に読むことが出来るという意味である。

ヨガや神智学、すなわち神秘主義では常に外なるものと内なるものとが一対となっている。
竜王会ではこの基本中の基本を繰り返し教わるので、吉永のような一神教と近代唯物論の混在したような考え方はしないし、そのような考え方で三浦関造の文章を解釈しようとすると、整合性のとれない、誤った解釈に陥ってしまう。

竜王会は適切なヨガ実修及び不適切なヨガ実修の危険性を警告し続けた、数少ない貴重な団体の一つである。

それなのに、こともあろうに三浦関造オウム真理教を結び付け、三浦関造がもっと長生きしていたらオウム真理教のような危険な団体になったかのような論文の結論はありえないことである。
しかも、不可解なことに、吉永は反日テロ集団だったオウム真理教反日性には一切触れていない。
オウム真理教が、中共のような思想弾圧している一党独裁国家ではない、憲法第20条で信教の自由を規定した日本国において反日テロを起こすという重大な思想的問題を孕んでいたことを、わたしはエッセー40 *9で指摘した。

吉永による三浦関造の人物紹介も偏っており、唐突に「三浦はまた、昭和3年には見神体験を持っている」と切り出すことで、トンデモ体験であるかのような印象操作を行っていると思う。

昭和3年(1928)というと、1883年生まれの三浦関造は45歳である。しかし、三浦関造の著書や機関誌を読むと、三浦関造神秘主義的体験が幼児期からあったことがわかるはずである。

そのような体験を「わが幼児の思い出を40年前に書いて、当時のキングという雑誌に投稿」したものだという詩の一節を1958年初版の三浦関造『大直感力』(竜王文庫、1979・第11版)から挙げておく。

ぼくが小さい時でした
お庭の桃に花が咲き
森のこずえに鳥が鳴き
日がぽかぽかな春でした
誰か知らない善い人が
私の名をばよびました
草屋をとんで庭にいで
庭をおどつて森にゆき
森からぬけて野にいつて
うしろを見ても前見ても
影も姿もなけれども
見たことのない善い人が
わたしの名をばよびました*10

神秘主義者はだいたい幼児期から神秘主義的な体験を持っているものだと思う。わたしのようなヒヨコの神秘主義者ですら幼児期からほのかな前世とあの世の記憶、見えない方々の見守りを感じていた。唐突に起きるものではないと思う。

神秘主義者の体験が織り込まれている純文学作品は多いので、神秘主義者は大抵、純文学系の児童文学作品、小説、詩が好きである。

ヨガについても神智学についてもろくに知らず、知ろうともしない不遜さで、近代日本における神智学の歴史というテーマで持論に都合のよいだけの支離滅裂な展開となった論文を書き、それがアカデミックな論文ということで権威づけられ、ウィキペディアなどに引用されて世に拡散することの恐ろしさを吉永の論文は教えてくれる。

ちなみに『至上我の光』50号(1958年5月1日発行)「瞑想」から、当エッセーを書くために再読して癒やされる思いがした断片を引用してみる。三浦関造が救世主をどう定義しているのかがわかる文章でもある。

 苦しいなら、苦しくない考えと気持ちを生み出しましょう。すると、卵殻の中のヒヨコのように、殻から出ていくことができます。

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 無理と理の見きわめをして下さい。自分で理が通っていると思えることなら理にかなっているが、人が理だといっても無理やウソがあまりにも多い世の中です。

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 一日中、私の最もよろこばしい時は凡てを忘れて原稿を書く時と、早朝三、四時欠かさず瞑想をして、頭の中心から黄金の花の光がサンランとして光り出るのを見る時です。これは魂の窓が開かれた喜びであります。
 私は東京にいても、魂は全国に通じます。皆さんが気をしずめて、ジーッと私を思い、他心がなくなってしまった時私は貴方と共にいます。その時、貴方と私との間には距離はなくなっています。私が光かがやいて貴方のそばに現われたら、貴方の窓が開かれている証拠です。

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 死んだ人のことを思うと死んだ人の処にゆき、神々を思えば神々の処に行く。神々といえども死んだ人々のように不完全な者です。完全なものは自分の魂であります。
 大救世主を知れば、神々の大師になれると教えられていることを忘れないようにたのみます。

機関誌はどの号もこうした奥深い教えと温かな励ましの言葉が充溢しているというのに、静的な会員たちの陥りがちな消極性、危機意識のなさに檄を飛ばした三浦関造の言葉を曲解して、吉永は陰謀論だのメシア論だのというのである。

三浦関造のような人物を今の日本で見つけるのは難しい。戦前の日本は、スケールの大きさとデリカシーとを兼ね備えた三浦先生のような人物を生む国だったのだと改めて思う。

メンタル疾患とジェネリック医薬品生活保護の申請がやたらと増え続ける今の日本の異常を見るとき、薬漬けになった精神病者の一部は深刻な病気であっても、それ以外の人々には環境改善と三浦先生のような人の助けが必要なのではないかと思ってしまう。

だが、日本国内の動きはそれとは逆方向に向かっているのではないだろうか(エッセー53 *11を参照)。

今月、岩間浩『三浦関造〔かんぞう〕の生涯』が発行されると機関誌で報じられていた(岩間浩は現「竜王会」会長)。そのうちアマゾンにも出るのではないだろうか。トンデモ人間であるかのように印象操作されない三浦関造の真の姿が明らかになることだろう。

最後に、前掲『総合ヨガ用語解説集』の「三浦先生 訳・著書一覧 年代順」から、三浦関造の訳書を紹介しておく。ウィキペディアで著者が確認できたものは、その訳に変えかえさせていただいた。

  • ビョルンスティエルネ・ビョルンソン「家庭小説・喜び」
  • モールトン・ゲーデン「世界文学としての聖書」
  • ジャン=ジャック・ルソー「エーミール 人生教育」「エーミール」
  • チェーザレ・ロンブローゾ「個性の教育・犯罪と遺伝」
  • マーチン・トロウ「反抗の義務」
  • ロマン・ローラン「ジャン クリストフ 闇を破って」
  • フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー「カラマゾフの兄弟」全四巻のうち二巻
  • ラビンドラナート・タゴール「(森林哲学)生の実現」「タゴール詩集・伽陀の捧物」
  • レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ「人生」「修身童話」「童話の倫理問題と教育的価値」「第一歩」
  • ヘンリク・シェンキェヴィチ「ハニヤ」
  • ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「歩行と荒野」
  • ウォルト・ホイットマン「大道の歌」
  • ハズリット「旅と人生」
  • エドワード・カーペンター「天使の翼 生に徹する芸術」
  • ジェ ダブルユー リー「科学より宗教へ」
  • ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン「革命の港より」
  • プラトン「国家」
  • トマス・ア・ケンピス「御足の跡」
  • コメニウス「大教育」
  • ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ「石屋の妻」
  • ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベル「人の教育」
  • ジョン・デューイ「民主主義と教育」
  • ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ「新生の曙」
  • ウェルズ「新エミール」
  • ビセンテ・ブラスコ・イバニェス「黙示の四騎手」
  • マンテガッツァー「続 愛の学校」

ビョルンソンには「日向丘の少女」があり、子供の頃に読んで感銘を受けたことを思い出した。「黙示の四騎手」を書いた作者が「血と砂」の作者でもあるとわかって、「黙示の四騎手」という作品も読んでみたくなった。

 


マダムNの覚書 2016年6月12日 (日) 12:32、2016年6月14日 (火) 23:21

*1:p.380(584)

*2:p.380(584)

*3:座右の書にふさわしいH・P・ブラヴァツキー『沈黙の声』

*4:ウィ キペディアの執筆者. “ヨーガ”. ウィキペディア日本語版. 2016-06-09. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC&oldid=60021934, (参照 2016-06-11).

*5:ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ②三浦関造の雛たちに危いまなざしを向ける人

*6:pp.389(593)-390(594)

*7:竜王文庫、1980、p.26

*8:ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ②三浦関造の雛たちに危いまなざしを向ける人

*9:ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ②三浦関造の雛たちに危いまなざしを向ける人

*10:三浦,1979,pp2-3

*11:ブラヴァツキーの神智学を誹謗中傷する人々 ④ 浮かび上がる反日・在日問題、新興キリスト教問題、ヒプノセラピー催眠療法)問題