マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)

Susan CiprianoによるPixabayからの画像

 

祐徳院の二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました(2021年12月24日)

福岡にお住まいの愛川順一様から伺った祐徳院に関するお話を、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただきましたので、まだ興奮冷めやらぬ中で、ご報告だけしておきます。

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

このような貴重な内容のメールを頂戴しておきながら、メールフォームの新着表示に気づかず、10日ほども放置していました。

わたしのようなずぶの素人がこのような申し出を受けていいのだろうか、と畏れ多いことに思いました。でも、おそらく祐徳院の初代庵主[あんじゅ]であった萬子媛とその後継として二代庵主を勤められた愛川様の御先祖様のお計らいだろうと考え、取る物も取り敢えず、返信しました。

お目にかかってお話を伺いたいと思いましたが、娘の勤務する病院ではコロナ対策としての県外への移動の縛りが解けておらず、決して強制というわけではありませんが、その対策はやんわりと家族にも及びます。

とりあえず、電話でお話を伺うことになりました。コロナ対策の縛りが解けたら、ぜひお会いしたいと思っています。岩本社に祀られている神様の御子孫ですよ、胸が高鳴るではありませんか。

以前わたしは、尼寺としての祐徳院や岩本社に祀られているかたに思いをめぐらせ、次の2本のエッセーを書きました。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』

萬子媛亡き後、尼寺としての祐徳院がどうなったのか、知りたくてたまりませんでした。その答えは、愛川様のお話から半分ほどは得られたように思います。

二代庵主様の出家前の姓は愛川、戒名は「無著庵慧泉宲源」だそうです。(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆)

尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に記述のある蘭契という尼僧かどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われます。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでした。

鹿島市民図書館の学芸員がおっしゃっていたように、その後は男性僧侶の修行の場として続いたのかもしれません。いつまで続いたのでしょう? 廃仏毀釈まででしょうか。

萬子媛は花山院家のお生まれですが、後陽成天皇の第3皇女であった清子内親王(1593-1674)の養女となっています。

清子内親王鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号しました。清子内親王は28歳で未亡人となっています。萬子媛誕生のとき、大鑑院は32歳でした。大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とし、82歳で亡くなりました。

萬子媛が育った鷹司[たかつかさ]家は、藤原北家嫡流近衛家の分流で公家の五摂家の一つですから、最高クラスの貴族の家柄です。愛川様の御先祖様はその家で萬子媛に仕え、降嫁に伴い鹿島に一緒に来られたのでしょう。萬子媛の結婚は37歳のときです。祐徳院で萬子媛の後継を勤められたのですから、萬子媛より若かったのでしょうね。

そして、京都の愛川家から萬子媛の降嫁に付き添ってきたのは、二代庵主になられた女性だけではなく、他にもおられたとのことです。

萬子媛は寛永二年(1625年)に生まれ、宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)入定なさっていますが、鹿島史の1700年に、愛川という名が近従として出てくるそうです。このかたは男性で、愛川家は代々医者の家系だそうですから、萬子媛近く仕えたこのかたはお医者様であった可能性が高いように思われます。

亡き母のお友達にキクヨさんというかたがいらして、そのかたのお家――中野家は代々鹿島鍋島家の御殿医でした。*1

数名のお医者様に看取られて、萬子媛は亡くなったのでしょう。*2

愛川春碩というかたは、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にしたのだそうです。このかたはこの事業を行うために鹿島を離れ、佐賀へ。愛川家が福岡に移住したのは明治維新後のことだそうです。

愛川家と祐徳院とのつながりは、戦後まであったのだとか。

愛川氏、鍋島氏、祐徳院の三者が集い、お祭りが行われていたといいます。これは、祐徳稲荷神社で行われているお祭りとは異なるものであるようです。諸々の事情があって、現在、愛川家は祐徳院との縁が切れた形となってしまい、平成13年にお亡くなりになった愛川太朗氏が祐徳院に関するメモを残されたとか。

そのメモのコピーを送ってくださるそうです。

廃仏毀釈の影響もあるのかもわかりませんが、愛川氏のお話では、昭和24年の祐徳院の火災で、祐徳院に関する貴重な史料の失われた可能性が高いです。田中保善氏の御著書『鹿島市史真実の記録』にも、祐徳稲荷神社の火災は出てきます。 

マダムNの覚書、2021年12月24日 (金) 03:30

 

萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(2022年1月17日)

2017年に佐賀大学地域学歴史文化研究センターから購入した井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)を改めて見ていると、21番目の資料として、「普明寺禅寺過去帖」がこの資料集の最後を飾っていることに気づきました。

郷土史家の迎昭典先生から貴重な資料を沢山送っていただいており、購入した時点では、ある程度の整理はついていました。

佐賀県鹿島市大字古枝字久保山にある普明寺は黄檗宗の寺院で、鍋島直朝公の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳性幢が開山となって創建されました。以後、鹿島鍋島家の菩提寺となります。祐徳院は普明寺の子院でした。

普明寺を見学したときのことは、エッセー72祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)」に書いています。

断橋は義理の母である萬子媛に祐徳院を譲って、ご自分は普明寺に移られたのでした。普明寺は祐徳稲荷神社にほど近い場所にあります。

といっても、整備された今の道路を車で行くから近く感じられるのであって、当時の道路事情はどうだったのでしょう?

エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」で、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)の中の宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記を引用しているのですが、その記述の中で蘭契という人物が祐徳院は山中にあると述べておられます。

当時は、奥深い山の中を歩いて行き来するという感じだったのでしょうか?

蘭契という尼僧が萬子媛の後継となって祐徳院の庵主となった人物ではないか――と憶測していたところ、御先祖様が二代庵主を勤められたという愛川様からメールを頂戴し、電話してお話を伺ったのでした。

二代庵主の出家前の姓は愛川、出家後は「無著庵慧泉宲源」だそうです(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。フォントによってこの漢字は表示されたり文字化けしたりします)。尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。

そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に登場する蘭契というかたかどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われました。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでしたから。

鹿島市民図書館の学芸員は、祐徳院のその後について、エッセー88祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)で採り上げた電話取材で、次のようにおっしゃいました。

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

この電話取材以前に、わたしは『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」にざっと目を通していたはずでしたが、そのときは学芸員がこの過去帖を根拠として、祐徳院というお寺の歴史を推測なさっていることに気づきませんでした。学芸員は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の著者のお一人なのですから、著作の内容にお詳しくて当然なのです。

今回『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」を再読して、注目した箇所を引用します。

      寶永 宝永八年改元正徳 (※引用者註 最初の宝永のホウは旧字体

    ……(略)……

    祐徳院殿瑞顔實麟大師
      二年四月十日 直朝公後室開山和尚剃度為尼改正六月一日 前左大臣定好卿娘塔於祐徳院万子(p.179)

    ……(略)……

    祐徳院前住入祠堂(後補)(※引用者註 玄の次の漢字は、うかんむりに呆)
    絶玄宲仙禅師 五年十二月十七日
      天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始(p.181)
    ……(略)……

      寛政 十三年改元享和

     宝石二代 桃洲源和尚 七年七月四日
                初住大興後迁化祐徳院塔当山
    (p.193 ※引用者註 「宝石二代」は小さな字で宝石と二代が二行に分けて書かれています。初住大興後の次の漢字は「千」にしんにょう)

    ……(略)……

    祐徳九代
     前監西洲玄璨和尚 十一年七月廿二日
    (p.193 ※引用者註 玄の次の漢字はおうへんに粲[サン])

このように普明寺の過去帖に、子院である祐徳院に関する記述があるのです。素人のわたしにはうまく解読できませんが、学芸員がおっしゃったように祐徳院は推移したのではないかと思います。

天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始」とあります。「後補」は「後世の補修」という意味で使われるようですから、天明七年五月二日にその加筆が行われたということでしょうか。

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺二代(貞享四年、1687年)、慧達は普明寺三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

鍋島直朝公の後継として藩主となった文学肌の直條公が『祐徳開山瑞顔大師行業記』(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収)を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかったでしょう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだといわれています。その直條公も萬子媛と同じ頃(宝永二年四月三十日(5月22日))亡くなったわけですが、少なくとも『祐徳開山瑞顔大師行業記』著述時までは、「尼十数輩」が祐徳院で修行なさっていたのです。

二代庵主の庵主としての期間は短かったかもしれませんが、萬子媛とおそらく一緒に出家されて、それから20数年、技芸の神様として祀られるような勤めを果たされて亡くなったのでしょう。

萬子媛が62歳で出家し、80歳で亡くなったことから考えると、萬子媛の降嫁の際に京都から付き添ってきた従事者がそう何人も残っておられたとは考えにくく、尼寺だったときの祐徳院には地元の女性も尼僧として在籍し、修行しておられたのかもしれないとわたしは考えています。

そして、二代目が亡くなった後、三代目になれるような女性は残念ながらおられなかったのではないでしょうか。

萬子媛が亡くなってから九代が亡くなるまでに、94年経過しています。

とんでもない間違ったことを書いているかもしれません。素人芸ですので、参考にはなさらないでください。

普明寺の過去帖は、昭和まで記述があります。

愛川様は祐徳院に関する資料をまとめてくださっているようです。大変な作業でしょうね。それによって、何かわかることがあるかもしれません。

もう一つわかったことがあります。萬子媛が鹿島鍋島家に降嫁された背景に藤原氏という共通するカラーがあったのではないかということです。

萬子媛は、鍋島直朝公の継室として京都から嫁がれました。正室は1660年に32歳で亡くなった彦千代(寿性院)というかたでした。彦千代の母は龍造寺政家の娘だったそうです。

ふと、龍造寺氏の出自はどのようなものだったのだろうと思い、ウィキを見ると、諸説あるようですが、藤原北家と関係があるようです。

萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たる公家です。

鍋島氏の出自にも諸説あり、藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられるとウィキにあります。

龍造寺氏は少弐氏を破り、鍋島氏に敗れたわけですが、少弐氏は藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族だということですから、何だか藤原色が濃い中での争いだったのですね。

マダムNの覚書、2022年1月17日 (月) 23:33

 

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料(2022年1月19日)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。

昨年(2021年)12月に愛川様から衝撃的な内容のメールを頂戴したことは、目次1「祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました」で書いていています。

衝撃的な内容のメールでしたが、届いたばかりの書類に関しては、まだお礼のメールも出していないので、ざっとご報告しておきます。

引用させていただきたい箇所を特定してから、今日中にはお礼のメールをしようと考えています。

永久保存と書かれた手書きの文書中、無著庵慧泉宲源禪尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禪尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禪尼の御子孫に当たる愛川太朗氏です。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

このような貴重な文書から断片的な引用が許されるのかどうかわかりませんが、お尋ねしてみたいと思います。

「鹿島藤津郡医会師よりコピー(原文ママ)」と手書きメモのある資料には、「愛川伯斉」の紹介に「三代藩主直朝に仕えた愛川伯順以来の藩医の家である」とあります。

※愛川様に確認したところ、鹿島藤津郡医会師は「鹿島藤津医会史」とご訂正ください、とのことでした。

愛川様のメモによると、愛川の名は『鹿島藩日記』『鹿島役所日記』『鹿島市史、中巻』『医業免礼制度』に出てくるそうです。

鹿島藩日記』には、二巻、四巻、五巻に出てくるとあり、何頁に出てくるかもメモして下さっているので、わたしが持っている二巻をさっそく見たところ、興味深い日記の内容でした(わたしが購入したのは一巻と二巻です)。

愛川様の御先祖、愛川伯準(『鹿島藤津医会史』では伯順となっています)というお名前が出て来るのは、『鹿島藩日記 第二巻』所収「日々萬控帳 宝永二年乙酉ノ六月五日ヨリ 同三年戌九月四日迄」中、宝永二年七月十五日の日記(p.527)です。

切腹しかけた人があり、そこに派遣されたお医者様のうちのお一人が愛川伯準でした。「薬こう薬等」で治療されたようです。

確か、日本で初めて殉死禁止令を出したのは、佐賀藩主の鍋島光茂公ではなかったかと思います。「マダムNの覚書」の過去記事*3で、次のように書いています。

田中耕作『初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども』(佐賀新聞社、2000)によると、この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

何にせよ、このとき愛川伯準が手当てをなさった与兵衛という人は、法を犯して殉死しようとしたのですね。いや、殉死のために切腹を意図したとは限りません。何のために切腹しようとしたのでしょうか?

その経緯についても詳しく書かれているようですが、素人のわたしの読解力では内容を理解するのに時間がかかります。

『鹿島藤津医会史』に「元禄十三年(1700)四月十三日の鹿島請役日記より」と書かれた引用箇所及び解説を見ると、萬子媛と同じ頃に亡くなられた鍋島直條公のご病気が何であったのかがわかります。腹部に腫瘍のある疾患だったようです。

直條公は5年後に江戸で亡くなっていますから、5年以上、腹部の悪性腫瘍に悩まされていたことになります。病身に鞭打って鹿島鍋島藩主としての仕事を続けていられたのでしょう。

この鹿島請役日記は『鹿島藩日記 第一巻』で見た記憶があったので、開いて見ると、やはり収録されていました(『鹿島藤津医会史』の引用に該当するのはpp.502-503)。

ここではお名前が「白順」とあり(水川)とありますが、これは愛川伯順(あるいは伯準)でしょう。

昔の文書には当て字が多く、素人は面食らうことがしばしばです。

鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われた愛川春碩というかたに関する資料も大変貴重です。その御子孫の愛川様にぜひ作品としてまとめていただきたいです。

昨年の12月下旬、愛川様にお電話する前の検索で、愛川様が古代史研究家で邪馬台国に関する研究をなさっていることがわかりました。講師もなさっているようです。お電話したときにそのお話もしたので、邪馬台国に関する作品のコピーも送って下さいました。

沢山の贈り物に驚くばかりですが、とりあえず、お尋ねしたいことをまとめて、早くお礼のメールをしなくては……

マダムNの覚書、2022年1月19日 (水) 16:43

 

二代目庵主様の肖像画を撮影した不鮮明な写真、そして明治期の神仏分離令の影響(2022年2月 1日)

祐徳院の二代庵主様の御子孫でいらっしゃる愛川様が送ってくださった貴重な資料について、「お渡しした資料は、萬子姫を調べるツールとしていかようにも使って頂いて結構です」とのご許可をくださったので、なるべく早いうちに、まとめたいと考えてきました。

愛川様にはコロナ終息時にはお目にかかりたいという気持ちでいっぱいですが(江戸時代に祐徳院の二代目庵主を務められた無著庵慧泉宲源禪尼の面影がおありかも……)、娘が病院勤務であるため、家族にもやんわり規制がかかっている状態で、県越えが難しいです。

送っていただいた資料の中には、歴史研究家にお渡ししたほうがいいのではないだろうかと思える、巻物に記されていたという自筆履歴の写しがあります。漢文調で書かれています。

それは、目次1「祐徳院の二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました」でも触れましたが、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にした愛川春碩というかたの貴重な自筆履歴の写しです。

今日、それを確認していたところ、その自筆履歴原稿の下のほうが切れてしまっていることがわかりました。コピーを取られるときに切れてしまったのでしょうか。近いうちに、愛川様にお尋ねしてみようと思います。

というわけで、コロナ縛りが解けたら、祐徳稲荷神社と祐徳博物館にもなるべく早いうちに行きたいと考えています。

わたしは目次3「愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました」で、次のように書きました。

永久保存と書かれた無著庵慧泉宲源禪尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禪尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。
調査記録者は、無著庵慧泉宲源禪尼の御子孫に当たる愛川太朗氏です。
この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

ニュースで得た情報によると、このときの宮司さんは息子さんと交替なさったようですが、祐徳院二代庵主様に関する永久保存版文書は神社のどこかに、あるいは宮司さんが保管なさっているのでしょうか。

普明寺を管理されている女性に尋ねたところでは、祐徳院関係のものは普明寺には何もないということでしたから、文書が存在するとすれば、祐徳博物館ということになりますが、もしそうだとすれば、岩本社について教えてくださった女性職員のかたが教えてくださったはずなので、祐徳博物館に行ったらそのことも尋ねようと考えていますが、祐徳博物館にはないのかもしれません。

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

愛川様によると、そのような掛け軸を見たことはないそうです。現在、存在するとすれば祐徳博物館以外考えられませんが、そのような掛け軸を博物館で観た記憶がありませんし、もしどこかに収められていたなら、やはり女性職員のかたが教えてくださったに違いないと思うのです。

祐徳院及び、そこで修行されたかたがたがおられなければ、祐徳稲荷神社はありませんでした。もしあったとしても、鹿島稲荷神社とか鍋島稲荷神社といった名で呼ばれる稲荷神社の一つにすぎなかったでしょう。

明治期の神仏分離令の影響は想像した以上に大きく、わたしは今それをひしひしと感じています。

マダムNの覚書、2022年2月 1日 (火) 19:58

 

新発見あり、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです(2022年2月 2日)

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは、目次4「二代目庵主様の肖像画を撮影した不鮮明な写真、そして明治期の神仏分離令の影響」で次のようなことを書きました(太字引用者)。

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、目次2「萬子媛関連で、新たにわかったこと2件」では次のようなことを書きました(太字引用者)。 

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禪尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禪尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

マダムの覚書、2022年2月 2日 (水) 19:58

*1:エッセー87祐徳稲荷神社参詣記 (8)鹿島鍋島家の御殿医)」参照。

*2:エッセー89 「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」参照。

*3:「初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。」『マダムNの覚書』。2005年8月21日 (日) 21:19、URL:
https://elder.tea-nifty.com/blog/2014/05/272-bfac.html