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99 祐徳稲荷神社参詣記 (11)二組の葬礼:『鹿島藩日記 第二巻』

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花山院萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。
祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。
萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。
1662年、37歳で佐賀藩支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。
1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。
朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。法号、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。

 

神仏二本立てで醸成された雰囲気

三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)を読むことによって、萬子媛が剃髪後も鹿島鍋島家から濃やかに見守られていたことがわかった。そこには考え抜かれた絶妙な距離感がある。

台風被害の記録では、倒木の一本に至るまで把握されていることに驚いた。罪を犯した者の記録もあったが、その者達は追放になったようだ。

引用からはわからないと思うが、藩全体に何か家族のような雰囲気があるように感じられるのが意外だった。台風で倒れた木、死んだ馬、盗まれた材木、打擲された下人……生きとし生けるものが、藩の大切な財産であると同時に、家族のようなもの、慈しまれるものでもあったのだ。

そのような雰囲気が交際などを通して、藩の外まで広がっているように感じられるのだ。いや、それはあるいは藩の内外から来るものであったのかもしれない。

その雰囲気には、拙神秘主義的感性の捉える萬子媛及び一緒に行動なさっている方々の雰囲気に似通ったものがある。

地上で喜怒哀楽のうちに暮らす人間を見守ってくださっている、家族的といってよいような慈愛に満ちた雰囲気が、確かに藩日記からも薫ってくるのである。

全国の神社には、このような見えざる奉仕者がどの程度の割合で存在するのだろう? 萬子媛のような無私の奉仕者を輩出するには、ストイックな修行を特徴とする仏教が有功だったに違いない。神仏二本立てで醸成されたこのような雰囲気が、日本の国柄を創ってきたのである。

黄檗宗色の濃かった萬子媛の葬礼

前置きが長くなったが、『鹿島藩日記 第二巻』によると、萬子媛の葬礼は、宝永二年閏四月十四日(1705年6月5日)に執り行われた。

僧侶方――格峯(鍋島直孝、断橋和尚)、月岑和尚――のご意見により、「祐徳院様御事、御出家御同前ノ御事候ヘハ、」、つまり萬子媛に関する事柄は御出家同然の事柄なので、簡素に――「軽ク」と書かれている――執り行われた。

僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ。布施の額が記されている。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚   月岑和尚
 金子弐百疋  慧達
 同 弐百疋  石柱
 銀拾五匁宛  先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要 *1

30名の僧侶方。匁[もんめ]は江戸時代における銀貨の重量単位。僧侶方にはまた、ニ汁六菜、あるいは一汁六菜の料理が出された。

日記には「御葬礼ニ付、御領中今日一日、殺生禁断申付候、」と記されている。

桂岩和尚というのは、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)のことだろう。桂巌は萬子媛を黄檗宗に導いた義理の息子・断橋の師で、萬子媛はこの桂巌を授戒師として得度した。

大がかりだった鍋島直條の葬礼

鹿島四代藩主・鍋島直條の場合、五月十九日(1705年7月9日)が四十九日に当ったが、葬礼がまだだった。それでも、(葬礼より先に)普明寺・泰智寺で軽い四十九日の法事が執り行われたようだ。

五月二十日(1705年7月10日)の日記に、「今晩より来ル廿六日迄、殺生禁断、筋々相触候」と記されている。

直條の葬礼が二十二日(1705年7月12日)に普明寺で執り行われるのだが、前日の二十一日(1705年7月11日)の日記に、それにたずさわる者の名が15頁に渡って記されている。大がかりなものだった様子がわかる。萬子媛の簡素な葬礼と対照的である。

次に引用するのは「正統院(鍋島直條)様御葬礼、一通役者左ニ記載」からである。人名は割愛する。

都合頭人  銀穀役  料理方  筆者  御茶湯方  普明寺門番  施行幷放生気遣  方々より御名代衆  普明寺被罷越候節、近辺宿気遣、野菜・薪等迄、宿々へ指出候気遣  方々より之御名代取合  普明詰給仕  寺中無作法之儀無之様、気遣・掃除等、見計役、  御香奠請取役  法泉庵詰  通玄庵詰  御霊前堪忍  御霊供奉役  *2  

続いて、「御葬禮行烈(列)次第」からも引用しておこう。人名などは割愛する。

壱番 御卒馬/ 二番 沓箱/ 三番 御挾箱/ 四番 御鑓/ 五番 具足箱/ 六番 御臺笠/ 七番 御長柄/ 八番 御打物/ 九番 散花/ 十番 散米/ 十一番 大幡/ 十二番 鍬/ 十三番 挑灯/ 十四番 小幡 此間ニ大衆/ 十五番 御霊供/ 十六番 御菓子二盆/ 十七番 御茶/ 十八番 酒水/ 十九番 燭台二本/ 廿番 花瓶二ツ/ 廿一番 香炉香台/ 廿二番 宮燈/ 廿三番 香※(※帝の市が十)/ 廿四番 紗燈 此間ニ左右に家老両人/ 廿五番 御棺/ 廿六番 御大小/ 廿七番 天蓋/ 廿八番 家老中不残幷惣家中/ 廿旧番 御草履取/卅番 御茶弁当/ 卅一番 合羽箱/ 卅二番 雑多/ 
諸役者右之通也  *3        

翌、五月二十二日(1705年7月12日)の日記には「御葬礼、今昼八ツ時相澄〔ママ〕候、」と一行だけ記されている。読みながら思わず「お疲れ様!」といいたくなった。

*1:三好編、1979、p.406

*2:三好編、1979、pp.454-462

*3:三好編、1979、pp.462-468