マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

68 今東光が訳した神智学書籍と日教組批判活動

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出典:Pixabay

2013年10月頃から、佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社を創建した 鹿島藩主鍋島直朝公夫人萬子媛(1625年 - 1705年閏4月10日〔1705年6月1日〕)の小説を書きたいと思って準備を始め、2015年の10月末に第一稿を仕上げた。

そして、小説は第二稿に入ったところであるが、出家して黄檗禅の僧侶となった萬子媛が日々唱えられたに違いない般若心経を覚えるつもりで動画を検索していたところ、黄檗禅の僧侶が唱える動画と一緒に、瀬戸内寂聴の般若心経に関する解説を収めた説法動画が出てきた。

 

今東光を師僧として得度した瀬戸内寂聴

瀬戸内寂聴は1973年11月14日に天台宗の僧侶であった今東光(僧名は今春聴)を師僧として、中尊寺で得度している。当エッセーでは今東光の神智学徒としての側面と日教組批判活動に触れるつもりであるが、今東光というと、どうしても瀬戸内寂聴を連想しないわけにはいかないので、先に彼女について見ていきたい。

瀬戸内寂聴が文学界に強大な影響力を及ぼしてきたであろうことは、拙基幹ブログ「マダムNの覚書」における2010年6月17日付記事「文学界の風穴となるだろうか?」*1で考察済みであるので、その部分を若干修正して次に引用する。

文学界における寂聴の影響

純文学が社会の価値観に与える影響は大きいが、潜在的だから、この事態が見過ごされてきている。わが国の純文学は自然にこうなったのだろうか? 勿論、そんなはずはないのだ。

平野啓一郎のデビューと寂聴

わたしのパソコン歴は6年くらいのもので、ネットをし始めた頃に、たまたま平野啓一郎の『日蝕』について検索した。一頃話題になった、佐藤亜紀の『鏡の影』との関係が気になったからだったと思う。その頃、交際のあった女性編集者はわたしにそのことについて、佐藤亜紀の嫉妬だろうといった。

事の真偽はともかく、神秘主義に親しんできたわたしには『日蝕』は神秘主義的な事柄を玩具にしているように映った。

凝っているのはわかるにしても、悪趣味で幼稚、どこといってとりえのなさそうに思えた、純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにないこの作品が天才的と評されて芥川賞を受賞した。

純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにない――といったのは、昔の作家の例になるが、泉鏡花の小説や戯曲、吉屋信子少女小説のように、どちらの資格もあるという意味でいったのではない。どちらの資格もないといいたいのだ。佐藤亜紀の作品はエンター系だが、まぎれもない文学作品であり、作風はスタイリッシュだ。

ところで、平野啓一郎のデビューの仕方を、ウィキペディアから以下に引用する。

デビューの経緯

啓一郎の特色の一つとしてその「投稿によるデビュー」が挙げられることがある。啓一郎がデビューした文芸誌『新潮』の巻末には、現在まで毎巻欠かさずに「御投稿作品は、全て「新潮新人賞」応募原稿として受付けます。」との記述がある。啓一郎自身がインタビューで答えた情報によれば、デビュー経緯は以下の如くである。

1997年、21歳の啓一郎は1年(資料収集半年、執筆半年)を費やしデビュー作となる『日蝕』を書く。投稿先を『新潮』に決める。年末、『新潮』編集部に自分の思いを綴った16枚の手紙を送る。手紙を読んだ編集部からは「とりあえず作品を見せて欲しい」と回答。編集者の出張先が京都であったこともあり、会って食事をする。1998年、『新潮』8月号に『日蝕』が一挙掲載される。「三島由紀夫の再来とでも言うべき神童」などという宣伝と共にデビューする。翌年芥川賞受賞。*2

含みのあるエピソードだが、出版社も商売だろうから、作品がよいものであれば、そんなことはどうだっていいと当時わたしは思っていた(よいものとは思えなかったから、そのことが問題だと思った)。

だから、ネットで平野のデビューには瀬戸内寂聴が関与しているという記事を閲覧したときも、ちょっと意外に感じただけだった。

平林たい子円地文子が好きなので、そのついでにという感じで、瀬戸内寂聴の作品を何編か読んだことがあった。岡本かの子が好きなので、『かの子繚乱』も読んでいる。『かの子繚乱』についてはよく取材がなされており、労作と思われた。

しかし読後、わたしは一抹の疑問を覚えた。『かの子繚乱』で描かれた天衣無縫というよりは幼稚な、それでいて色欲に衝かれたような生臭いかの子像が、ぴんとこなかった。かの子の作風は高雅で知的であり、性をテーマとしていても、生臭さがない。

一方、お坊さんなのに、瀬戸内寂聴の作品はどれもこれも生臭いとわたしには感じられた。これまでにわたしの知るどんな作家のものよりも、生臭い。

一般的には、瀬戸内寂聴は、文学界と仏教界の権威を帯びた文化の顧問的イメージ、おおらかさのシンボル、といったものではないだろうか。 

現に昨日――2010年6月16日付――の朝日新聞朝刊の文化欄にも、88歳になった寂聴が慎ましやかな表情で出ていた。記事から次に引用する。

携帯電話にはハート形のストラップも付け、若い作家との交流もある。「芸術は新しい世界をひらいていかないとダメです。こつを覚えれば小説は書けますが、それではつまらない。私もまだ書いていない、新しいものを書き続けていきたいと思っています」

新しい世界とは何だろう? この生臭いお坊さんを悦ばせる小説とは、どんなものなのか? わたしは彼女が影の影響力を発散し続ける限り、わが国の純文学に新しい世界は拓けないだろうと思う。

生臭くて内容に乏しい、変な技巧を凝らした作品でないと、賞がとれない純文学界の雰囲気は、一体誰がもたらしたものなのか?

僧侶のコスプレをした、巧妙な仲介業者

若い作家と交流があるということは、その作家たちが彼女の後押しでデビューしたということを意味するのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼女の影響下でデビューの機会を奪われた大勢の作家の卵がいるということを意味する。

わたしがそんな疑問を持ち出したのは、半年ほど前に、美容院で『婦人画報 1月号』(アシェット婦人画報社、2009年12月1日発売)の《寂聴先生、米寿のおしゃれ説法》を読んだときだった。

寂聴のブランド趣味を披露した特集……。カルティエティファニーの腕時計。シャネルのバッグは「清水の舞台」的に高かったそうだ。ロエベエルメスのバッグ。以下は、愛用品につけられた説明からの引用である。

  1. 数奇屋袋はブランドバッグと同様に大好きで、粋な意匠のものが好み。ちょっとした散歩などに持ち歩く。
  2. アンティークの籠バッグ。レザーバッグは耐久性に優れるが、和のやさしさも捨てがたいという。
  3. 寂聴先生のお酒好きは有名で、猪口や片口のプレゼントも増えた。艶やかなガラス製は金沢のもの。
  4. 時間ができると、愛用のピンクの携帯電話で自らのケータイ小説をのぞく。PV数が増えるのが楽しい。
  5. 携帯電話に映えるキラキラストラップは、平野啓一郎夫人でモデルの春香さんからの贈り物。
  6. 平野啓一郎さんはプレゼント魔」と嬉しそうに話す寂聴先生。
  7. 驚くなかれ、尼寺「寂庵」には秘密のバー「パープル」がある。仲良しの編集者たちと過ごす部屋。
  8. バー「パープル」のカクテルは、すべて紫色。祇園の芸妓さんがレシピをたくさん考案してくれた。

尼寺にバーがある? ステーキとお酒とブランド品が好きな僧侶。わたしは、めまいを起こしそうになった。

これではもはや、瀬戸内寂聴は、坊主のコスプレをした贅沢なマダ~ムにすぎない。

プレゼントが多いようだが、それは彼女が僧侶兼作家という立場を利用した、巧妙な仲介業者でもあるということを意味しているのではないだろうか。

宗教の本質は神秘主義である。神秘主義が禁酒、禁煙、菜食を勧めるのには、秘教科学的な根拠があるからで、そうしたものが肉体ばかりか、精妙な体もにダメージを与えると考えられているためである。

その説明には、人間の七本質に関する知識がどうしても必要なので、H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995)の用語解説(23~24頁)より、七本質に関する解説を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

アストラル体サンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。
物質界に最も近い目に見えない世界をアストラル界というが、アストラル体はそのアストラル界の質料から構成されている。

カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。

ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。

高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。

低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

飲酒や肉食は、カーマに惹かれる下向きのエネルギーを強めるといわれている。他にも、いろいろな理由から、神秘主義は清浄な生活を勧めているのである。

一般人には、一足飛びにそのような清浄な生活を送るのは難しいが、誓いを立てた僧侶はその難事業にチャレンジし、世の模範になろうとするわけである。

寂聴は僧侶とはいえないが、前掲誌『婦人画報 1月号』から次に引用する彼女の意味をなさない言葉からすると、良識ある大人ともいえない。

「女子高生が援助交際なんかしちゃってブランドバッグを手に入れて喜んでいる一方で、ブランドものなんて虚飾!と言わんばかりに頭から否定してしまう大人がいる。いったい日本はどうなってしまったんでしょうね。戦時中の“贅沢は敵だ”じゃあるまいし、モノのもつ価値をきちんと理解できる大人が、大切に慈しんで使えば、それでいいではありませんか。ねぇ」

わが国を覆う物欲と性欲。この風潮に彼女が一役買っていないとは思えない。

テロリストの新左翼活動家と寂聴

瀬戸内寂聴は、坊主のコスプレをしたまま、気軽に左翼と関係の深い政治運動へと出かけて行く。テロリストの新左翼活動家とも親しく、『愛と命の淵に―瀬戸内寂聴永田洋子往復書簡』(福武書店、1986)など上梓している。

YouTubeに「重信房子からの手紙 日本赤軍元リーダー・40年目の素顔」(制作:毎日放送*3がアップされており、それに寂聴が顔を出していた。

重信房子について、ウィキペディア重信房子」から引用する。

重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、テロリスト。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。ハーグ事件の共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。現在、八王子医療刑務所にて服役中。*4

重信房子全共闘のアイドルだったそうだ。

番組の中で、重信の短歌を紹介していた。歌人ではない普通の人が詠んだと思えば、よくできているといったところだろうか。植物が好きな一面や父親との思い出なども紹介されたが、重信にはそんな肉親との時間や植物を愛でる時間を他人から奪ったという自覚は生じなかったのだろうか。

海外で多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返すことで、罪のない一般人の貴重な時間がいくつも奪われたはずだ。

革命の象徴的存在とされるローザ・ルクセンブルクも、獄中で植物を愛で、美しい手紙を残しているが、置かれた状況も、立場も、学識も、人間性も、目的も、重信とは全く異なる。

重信とは別格で、重信に関する前掲番組から窺われるようなテロ活動のなかで自分探しでもしていたような曖昧さ、凡庸な人間性とは器そのものが違う。

重信房子のような人間がつくった組織に殺された人々は、本当に浮かばれないという気がする。「人が人を虐げることなく、差別や不正がない社会を追い求めた」と番組では美化していた。

重信房子の娘、重信メイ足立正生『革命の子どもたち』初日舞台挨拶でインタビューを受ける動画「重信メイ、母・重信房子が逮捕された日について語る」*5YouTubeの動画検索で出てきた。

その動画で重信メイは、母の逮捕について不正義で残念なことと述べた後に「でも、今まで人生で心配していた暗殺とか拷問というものがなかっただけホッとした」と語っている。

そのような暗殺とか拷問というものもなかった、医療刑務所でがんの治療も受けられる、世界でも珍しい部類に入る甘いくらいの国を重信房子は否定し続け、国辱的行為を繰り返したわけである。

寂聴も、終始重信房子に共感していて、それは賛美ともとれるほどだ。

「新しいことを起こそうとする人は必ずね、法に触れたり、あるいは世間のね、一般の道徳の癇に障ったりするんですよね。でもそれを恐れないでね――恐れているかもしれないけどですね――あえて、それにぶつかってですね。それでも自分の思いを少しでも達しようとするね、そういう情熱をね、抑えきれない情熱ね、それこそがわたしは若さだと思うんですよね」

「もしもわたしが彼女の時代に生きていたとしたら、やったかもしれない、そういうものが自分のなかにあるから、どうしてもそういう人たちに近寄っていって、縁が結ばれてくる」

重信がしたことはスポーツや起業ではないのである。重信が自分の罪を悔いているようには感じられないが、それに気づかせることができるのは寂聴のような坊主のコスプレ女ではなく、萬子媛のような筋金入りの僧侶に違いない。

前述したように、瀬戸内寂聴は1973年、今東光を師僧として得度している。文学を通じた交際があった程度で、今東光から宗教的な教えを受けていたということではなさそうである。

代行者による寂聴の得度式

瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』(日本経済新聞出版社、2008)によると、今東光ががんで入院中だったため、得度式は代行者によるものだったらしい。出家するにあたり、次のような会話が今と寂聴の間で交わされたという。その場面から次に引用する。

「頭はどうする?」
「剃ります」
「下半身はどうする?」
「断ちます」
 それだけであった。先生は、
「出家しても、あなたはあくまで小説家として、ペンは死ぬまで捨てるな」
 とおっしゃった。*6

今東光は神智学に関心を持っていたようで、翻訳もしているようだから(※C・W・リイドビーター『神秘的人間像』文曜書院、1940)、神智学の影響を受けた作家を調べているわたしとしてはきちんと調べなくてはと思いながらも、寂聴の師僧と思っただけで気が重かった。

名前くらいは知っていたが、著作を読んだことはなかった。今東光について、ウィキペディアより引用する。

今 東光(こん とうこう、1898年(明治31年)3月26日 - 1977年(昭和52年)9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽)、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。
作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。*7

意外なことに夫が、年の功というべきか(わたしより7歳上)、話題になっていたころの今東光をテレビや広告などを通して知っていた。

「怪僧? 生臭坊主?」というと、夫は「今東光はやんちゃなんだと思うよ。寂聴とは全く違うと思う。今東光に興味があったわけではほとんどないけれど」といい、今東光には悪い印象を持っていない風だった。

神智学との関係が深かった今東光の父親

ウィキペディア今東光」を閲覧すると、本人より父親のほうが神智学との縁は深かったようである。その部分を引用する。

父武平(明治元 9/4 生)は船長職の最古参で、国内五港定期航路 品川丸を経て、海外航路 香取丸のキャプテンを務める。来日時のラビンドラナート・タゴールと知遇になったり、第一次世界大戦時に船がドイツの無差別攻撃で巡洋艦エムデンに追われたが、智略によってこれを回避したりした。また、南インドマドラスに寄港、船の修理で船渠(ドック)入りした折、アディアールで神秘思想に触れ「神智学協会 THE THEOSOPHICAL SOCIETY  註:霊智学会とも呼称」会員となる。以後「胡桃船長」の異名をとるほどに菜食主義に徹した有数の神智学者としても知られた。アニー・ベサント、ジッドゥ・クリシュナムルティと親交を深め、東京市本郷区西片町に「神智學協会東京ロッヂ 1920」を開設、鈴木大拙夫人で神智学者だったベアトリス・レインBeatrice Lane とも交流した。*8

文壇デビューは次のようなものだった。

1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められ、菊池寛の訪問を受け『文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による『文藝時代』創刊に参加して、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表。1924年創刊の『苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。*9

検索していると、今東光が身の上相談に回答したものを引用した記事が沢山出てきた。

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中央公論社『週刊公論』3月1日号(1960)より今東光
出典:Wikimedia Commons

愛情と奥深さとを包み隠したような毒舌回答に興味を惹かれたので、さらに検索を続けていると、意外な話が出てきた。

赤旗のはためきの中、日教組を叱咤し、教育の正常化を訴えた今東光

日教組(教職員の労働組合)の大会に招かれて挨拶に立った今東光が「テメエラのようなヤロウがいるから日本の教育がダメになるンだ!」(「東光和尚の毒舌」: Zakkaya Weekly No.188)*10と演説したという話である。

瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』では、今東光の政治活動については「政治家としては自民党参議院議員として存在感を示されたが、御本人はあくまで小説家としての御自分に愛着を持っていられた」*11と書かれている程度で、具体的にどのような活動であったかはわからなかった。

他にも、今東光の政治活動の一環に関する記事と思われる、これも日教組批判を伝える二つのブログの記事が出てきた。その部分を引用させていただく。

教育が荒廃した現場に心を痛めた笹川良一今東光先生は、総評の激しい反対運動の中、全国各地で厳しい日教組批判と教育の正常化を訴え獅子吼(ししく)した。(「教育は100年の計」: 笹川陽平ブログ)*12

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日教組華やかなりし頃、今では私のところにも訪ねて来る槙枝委員長ですが、当時は笹川良一と厳しく意見が対立していました。「親孝行をしろ、交通ルールを守れなどとテレビで余計なことを言うな」と槙枝さんは言いましたが、父は作家の今東光さんと2人で「教育の弊害、これ100年祟る」と言いながら演説して回り、日教組の批判活動をしていました。その時の、あの赤旗のはためきと先生方の嵐のような反対運動は忘れられません。(「笹川良一の遺したもの」・・・笹川陽平②: 日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。)*13

夫がいうように、今東光はただの生臭坊主ではなさそうである。寂聴とは違う。

ウィキペディア今東光」を閲覧すると、「左傾」時代を含む多彩な経歴に驚くが、こうした記述はない。

「左傾」の経緯を、ウィキペディア今東光」で追ってみる。

1927年、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。また「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年に日本プロレタリア作家同盟に参加、〔略〕映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた。しかし、妻フミ子の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。*14

今東光には、先立つ左翼活動があったわけである。そして、東光は出家する。

1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。  *15

ウィキペディア今東光*16によると、1953年2月、今東光は30年ぶりに『文藝春秋』に掲載された作品「役僧」で、文壇に復帰した。僧侶としても活発な活動を行い、1968年、参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補して当選し、1期務めた。選挙事務長は川端康成だった。

議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であったというから、驚く。

わたしは、村上春樹の小説『海辺のカフカ(下)』(新潮社:新潮文庫、)の中の次の言葉を思い出した。

だいたいきみは自衛隊に入っていたんだろう。国民の税金をつかって鉄砲の撃ち方も教わっただろう。銃剣の研ぎ方だって教わっただろう。兵隊さんじゃないか。殺し方くらい自分の頭で考えろ。*17

今東光の発言が、国を、国民を守らねばならない戦闘状況に陥った自衛隊員の境地を想定しているのに対して、村上春樹が黒猫にいわせた言葉は自衛隊員の任務を歪曲した誹謗中傷、茶化しでしかない。

今東光の発言から、わたしは『バカバッド・ギーター』を連想した。『バカバッド・ギーター』は古代インドの大叙事詩マハーバーラタ』の中の700から成る詩節で、ヒンドゥー教徒に愛されてきた。

作品は、戦闘下で人を殺めることをためらう勇士アルジュナの悲痛な訴えと、ヴィシュヌ神の化身クリシュナの宗教哲学的な教えで構成されている。

今東光は、戦後日本の分かれ目となるような重要な政治活動を行っていた。彼にはそれを見抜くだけの感性と知性と経験があり、行動を起こすだけの気骨があったのだ。

残念ながらその活動は半ば失敗し、反日勢力は蔓延り、戦闘下でもないのに、国を守る人々でもない人間たちによって、悲惨な事件が毎日のように起きる陰鬱な日本となってしまった。

瀬戸内寂聴今東光の忠実な弟子であったとしたら、日本の宗教界、教育界そして文学界は、今とは全く違ったものになっていたかもしれない。

戦後日本の問題点を探るには、次に挙げる著作は必読の書である。

  • 江藤淳『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本(文春文庫)』(文藝春秋、1994)
  • 関野通夫『日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦』(自由社、2015)
  • 余命プロジェクトチーム『余命三年時事日記ハンドブック』(青林堂、2016)

神智学を日本に紹介した一人であった三浦関造明治16年(1883)、今東光明治31年(1898)の生まれである。

三浦関造にしても、今東光にしても、神智学に関心を持った明治生まれの日本人には洗練された知性と愛国心、そして勇気があったようだ。神智学徒でありながら、そのことをろくに知らなかった自分を恥ずかしく思う。

三浦関造に関しては、エッセー 61「大戦前後の日本が透けて見えてくる、岩間浩編著『綜合ヨガ創始者 三浦関造の生涯』を参照されたい。

 

マダムNの覚書、2016年8月29日 (月) 15:46

追記:神智学の影響が感じられる今東光の著作

追記:

ウェブサイトで閲覧した記事には今東光の著作からの引用も多く、参考になった。しかし、本人の著作を読まずに済ませるわけにはいかないので、色々なタイプの今東光の5冊の著作――歴史エッセー 2 冊、時代小説1冊、身上相談物 2 冊(『最後の極道辻説法』は文庫版『毒舌 身の上相談』に含まれていることがわかったので、1 冊とすべきかもしれない)――と、今東光をよく知る編集者による追想エッセーをざっと読んだところだ。感想を記しておきたい。

6 冊――実質 5 冊――を紐解いてみて、今東光は神智学に薫染した父親を持っただけあって、その思想が血肉となっていることがわかった。図書館の本を含めて、今手元にあるのは次の 6 冊である。

身上相談物を読んで東光が大好きになってしまい、ああ会ってみたかったと思った。

親に恵まれなくとも、昔の日本には今東光のような慈父であり、またどこか慈母でもあるような人物がいて、魅力的な毒舌口調で相談にのってくれていたのだ。読んでいて感激の涙が出てくるくらいに、真正面からこの上なく真剣に東光は回答している。

身上相談を読んでも東光が身につけている豊かな教養とユーモアのセンスは感じとれるのだが、今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)を読むと、その教養から神智学の薫りがするのである。

例えば、聖徳太子の描きかたにもそれが表れているように思う。

今東光は阿育王(アショーカ王)の善政を評価し、その善政に倣った隋の文帝を評価し、短命だった隋だが、「僕に言わせるとこの文帝の仏教治国策は古代東洋における阿育王の話に次ぐ近代性を有つ国家です」*22という。

そして、人民の民度は低く、野蛮と無法とが貧困と同居していた当時の日本で、この隣国の仏教治国策を施そうとしたのが聖徳太子だといい、東光は聖徳太子に最大級の賛辞を捧げている。

アショーカ王の特色は、彼が熱烈な仏教信者でありながら、他の諸宗教を排斥しなかったところにある。中村元は『古代インド』(講談社、2004)で、それは仏教に、本来このような性格があるからだと述べている。

仏教とは覚者(ブッダ)の教えである。覚者とは万有の真理を会得した人にほかならない。このような覚者は、偏狭な先入見を去って、ありとあらゆるものにその存在理由を求め、主種な思想的立場に対しては、そのよって成立するゆえんを洞察するものであらねばならない。覚者の教えは他の教えと対立することがない。それらを超越してしかも包含しているところのものである。ゆえに仏教それ自身はかならずしも他の思想体系を否認せず、それぞれの意義を十分に承認し、それぞれの長所を生かそうとするものである。*23

わたしはここから神智学の教えを連想するのであるが、アショーカ王は真の仏教信者であったから排他的でない宗教性を持っていたのだろうし、今東光は真の仏教信者であったからこそ、神智学に親和性があったのだろう。あるいは、神智学に親和性のある資質が東光を仏教信者にしたといえるのかもしれない。

アショーカ王はチャンドラグプタの孫だった。ブラヴァツキーを指導、守護したモリヤ大師のモリヤの名は、同大師の化身であったモリヤ(マウリヤ)王朝の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来たものだといわれている。東光はこのことを知っていただろうか。

東光は神仏分離を次のように批判している。

僕の持論はね、明治初年の神仏分離は稀に見る悪法で、あのために日本はモラルのバックボーンを喪失したと見るんです。従って神仏は改めて新しく発足し直し、昔ながらに手を握るべきである。これなくして日本はモラルを恢復することが出来ないと主張してるんですどうです、こりゃ名論卓説てえもんでしょう。*24

平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』に収録された歌では神道と仏教とがそれぞれの系譜を純粋に保ちながら渾然一体となっていて、そこからは高い美意識と倫理観が感じられる。

日本人の美意識、倫理観がこのとき既に高度な水準に達していたことを考えるとき、わたしにも、神仏分離は悪法だったとしか思えない。神智学徒であれば、誰しもそう思うだろう。

絶世の美女とされるクレオパトラの知的魅力を、「アレクサンドリア学派の哲学を修めた教養の高い才女」*25という風に、アレクサンドリア学派を背景に説くところなども、神智学徒らしさを感じさせる。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「アレクサンドリア学派(Alexandrian Philosophers School)」を読むと、アレクサンドリア学派について総合的な知識を得ることができるが、ここに、アレクサンドリア市は「西暦173年にアンモニオス・サッカスが設立した折衷学派即ち新プラトン学派で一層有名になった」*26とあり、質疑応答形式の本文に「神智学という名称は三世紀に折衷神智学を創始したアンモニオス・サッカスとその弟子達から始まったものです」*27とあるように、神智学はアレクサンドリア学派から起こった。

だからアレクサンドリア学派という名称は、神智学徒にとっては特別の響きを持っているはずである。

今東光は嵐のような日教組に対する批判活動を繰り広げていたらしい。「共産主義てえもんは赤色帝国主義だってえ解るときが怖いんだ」*28という東光は、その怖さを緻密な歴史研究を通して知っている。

そして、引用する左翼的教育に対する今東光の懸念は、唯物史観とは到底相容れない神智学的歴史観からすれば、当然のものだ。

日本の左翼的教育てえものは、つまり馬鹿を拵[こしら]える教育で、それでねえとインチキなマルクス・レーニン主義を押しつけることが出来ねえんだね。だから日本の歴史も、仏教も何も知らねえ二十世紀人ばかりになってきた。将来、此奴等が大人になって人の親となったら、それこそ歴史の悲劇だろうな。*29

東光の懸念は当たってしまった。

島地勝彦『異端力のススメ 破天荒でセクシーな凄いこいつら』は、今東光をよく知る編集者・島地勝彦による追想エッセーである。

あまりにあけすけな筆致に、この編集者こそ破天荒だと思った。東光の破天荒ぶりには、稀に見るナイーヴな心が秘められているようにわたしには思われる。そうした東光の一面も捉えられているので、島地氏は優れた編集者だったのだろう。

『ポピュラー時代小説全 15 巻 第 8 巻 今東光集(大きな活字で読みやすい本)』に収録された「お吟さま」は、千利休の娘・お吟の悲劇を、流麗な文章で、繊細に描いた時代小説である。

歴史エッセー『奥州藤原氏の栄光と挫折』は、端正な、わかりやすい文章だ。前掲小説「お吟さま」とこの作品には、今東光の美意識が遺憾なく発揮されている。ただ、どなたかアマゾンのレビューに書かれていたように、参考文献の記されていないのが残念である。

エッセーの冒頭で、荒廃に近い姿で200余年を経過した中尊寺にある金色堂に東光が住職として任命され、6ヵ年の再現を費やして復元修理してから一躍、世の脚光を浴びたことが書かれている。東光は金色堂を「眩[めくるめ]くような藤原時代の宝石箱」*30と表現している。

ブラヴァツキーの神智学に薫染した人々の中から、文化保護のために働いた人物が数多く出ている。今東光もその一人といってよい。

明治の神仏分離廃仏毀釈)を東光が批判していることは前述した。その廃仏毀釈から仏教美術品を部分的にでも救い上げることに成功した岡倉天心フェノロサ、またアジア主義を唱えた大川周明、そして仏教復興運動に尽力したスリランカ(セイロン)独立の父アナガーリカ・ダルマパーラといった神智学の影響を受けた人々についても、そのうち簡単にでも書いておきたいと考えている。


マダムN 2017年6月 8日 (木) 01:51

*1:<https://elder.tea-nifty.com/blog/2010/06/post-9dc1.html>

*2:平野啓一郎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2010年5月7日 (金) 17:18 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2010年6月17日アクセス)

*3:<https://youtu.be/5NuzpevP0nM>(2012年10月3日公開)

*4:重信房子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月14日 (日) 14:11 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2017年6月3日アクセス)

*5:<https://youtu.be/9n0_1VnGwlU>(2014年7月8日公開)

*6:瀬戸内,2008,p.152

*7:今東光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月27日 (土) 12:25 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2017年6月3日アクセス)

*8:今東光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月27日 (土) 12:25 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org(2017年6月3日アクセス)

*9:今東光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月27日 (土) 12:25 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2018年11月16日アクセス)

*10:大西良衛 . “東光和尚の毒舌: Zakkaya Weekly No.188”. Zakkaya Weekly. www.zakkayanews.com/zw/zw188.htm, (参照 2023-09-26).

*11:瀬戸内,2008,p.152

*12:笹川陽平. “教育は100年の計”. 笹川陽平ブログ. 2011-07-13. https://blog.canpan.info/sasakawa/archive/3148, (参照 2023-09-26).

*13:釜坂信幸. “「笹川良一の遺したもの」・・・笹川陽平②”. 日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。. 2012-06-23. https://ameblo.jp/3203270117/entry-12515076106.html, (参照 2023-09-26).

*14:今東光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月27日 (土) 12:25 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2018年11月16日アクセス)

*15:今東光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月27日 (土) 12:25 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2018年11月16日アクセス)

*16:今東光」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年5月27日 (土) 12:25 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org(2018年11月16日アクセス)

*17:村上,2005,pp.486-487

*18:単行本化は1972年。

*19:収録作品は昭和31年茶道雑誌「淡交」に連載された中編「お吟さま」。第 36 回直木賞受賞。最初の単行本化は淡交社、1957年。

*20:週刊プレイボーイ」に連載されたもので、『極道辻説法』『続極道辻説法』『最後の極道辻説法』と単行本化された。

*21:『続 極道辻説法』『最後の辻説法』を合わせて一冊とし、文庫収録にあたり『毒舌 身の上相談』と改題された。

*22:今,1996,p.59

*23:中村,2004,p.193

*24:今,1996,p.98

*25:今,1996,p.39

*26:田中,1995,「用語解説」pp.16-17

*27:田中,1665,p.13

*28:今,1996,p.133

*29:今,1996,p.19

*30:今,1993,p.12