27 もう一つの世界への扉であるような作品を書いていきたい
出典:Pixabay
同じこの世を生きていても、あの世を視野に入れて生きる人と、この世でうまく生きることだけを考えて生きる人とでは、生き方がずいぶん違ってくることだろう。
そのいずれの場合にも段階が細かくあって、生き方は多種多様だ。同じ人間に見えているだけで、全く異なる生物がこの世を闊歩していると見たほうがいいくらいだろう。
昨夏、日赤に検査入院中だったわたしは、大部屋で70歳くらいになる患者さんと1ヶ月近く暮らすうち、仲良くなった。
ある日彼女は、当たり前のような口ぶりで、亡くなった彼女の夫が死後、火葬も何もかも終わったあとで、明らかに彼と感じさせる物音を家の中でたびたび立てた話をした。
高齢の人々と話していると、こんなことは珍しくない。
この世における政治・哲学・宗教・芸術などの流行がどうであれ、人間には本音と建前があるものらしく、大部屋での入院のような寝起きを共にする生活をしていると、建前に本音が溶け込んできて、思いがけない話が聴けるものだ。
わたしは、人が死んだ後、あの世に行くまでに、この世のことに整理をつけるための時間が――万人にかどうかは知らない――与えられることは確かだと感じている。エッセー6 はこの種の考察記録の始まりである。
その期間に起きたことを作品にしたものは少なくない。
Selma Lagerlöf、1928
出典:Wikimedia Commons
『ニルスのふしぎな旅』を著したセルマ・ラーゲンレーフ*1の異色作『幻の馬車』(石丸静雄訳、角川文庫、昭和34年)はこの系列の佳品だが、現代日本に溢れているおおかたの作品がわたしには嘘臭く感じられる。
高級感のある霊感や神秘主義的な知識に乏しい作家たちのこの世の建前がそんな作品にものさばっていて、実につまらない。想像だけで作ると、そうなるのだろう。
だからわたしは死者にとってのこの期間に起きたことを題材とした、自分にしか書けない作品を書きたい。
現実以上にスリリングで美しいものは、この世にはないと思う。確かな感受力と描き出す知力・精神力さえあれば、作品は読者にとって、もう一つの世界への扉となるはずだ。
マダムNの覚書、2009年5月3日 (日) 17:50
〔2015年9月23日の追記〕
『昼下がりのカタルシス』(Kindle版、ASIN: B00EJ7A5LY)は、この系列初の電子出版した純文学小説となった。