読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

32 神格化された漱石 ①神仏分離政策の影

初出:b覚書,2014

漱石の弟子たちや、第二次大戦後に左傾化した教育機関の研究者たちによって神格化され、国民作家として不動の地位を占めるようになった漱石野口英世の前に千円札に印刷されていたのは漱石だった*1

果たして彼はそうした器の人であったのか、検証してみたい。

f:id:madame-nn:20151011175013j:plain

1000 yen Natsume Soseki
From Wikimedia Commons, the free media repository

何となく嫌いだった漱石の小説がわたしには近頃、感覚的に合う。

だから好んで読みたいというわけでもないのだが、面倒臭いことを面倒だ、面倒だといいながら嬉々として書いている漱石に、ふと興味が湧いたのだった。
若い頃は漱石を読むと、小説に書かれているような面倒臭いこと――義理人情に絡む金銭トラブルとか密接な関係性に伴ういざこざとか――を突きつけられ、それに巻き込まれるような気がして嫌だった。
が、それらが発する瘴気を鼻の奥まで吸い込み、嫌なこと、面倒臭いことに実際に巻き込まれてみて、また老後の不安が現実のものとなり、他ならぬ自らが瘴気を発する立場となってみて、漱石にいくらか関心が向くようになったのであった。
「道草」は、世知辛い世の中を描いて絶品である。夫婦の掛け合いがユニークで、読ませる。
2人の女児を持つ主人公「健三」に三女が生まれたときの、健三のぼやきには思わず笑い、しんみりしてしまった。

 三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。

「ああいうものが続々生まれて来て、必竟[ひっきょう]どうするんだろ
う」
 彼は親らしくもない感想を起こした。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気[おぼろげ]に交[まじ]っていた。

 縛られなくてもよい義理人情に自ら縛られるかのような漱石の小説の主人 公は如何にも日本人的であり、古い日本にあった家父長制度の相互扶助を見せてくれる。

漱石の小説から明治の骨格が見えるのは、彼の小説がそうした社会制度と密着した特徴を持っているからだろう。優れた観察眼、抜群の文章力、辛気臭い作風、そのいずれからも正岡子規の影響が感じられる。
ただ、漱石はこの世から一歩も出なかった作家とわたしには思われ、そこに決定的な物足りなさがあった。
漱石には江戸時代の名残としての朱子学などの影響もあるのだろうが、プラグマティズムについて調べた今はその影響が強いのではないかと考えている。
漱石に「夢十夜」のような幽界を感じさせる独特の美しさを感じさせる作品はあるが、幽界は主観的な、半物質的世界であり、地上界の延長線上にしかない(場所としてではなく、状態として)。
幽界は、日本神話では黄泉、ギリシア神話ではハーデース、エジプト神話ではアメンティ(沈黙の影の国)、サンスクリットではカーマ・ローカ(ローカは存在世界、カーマは欲望)、スコラ哲学ではリンボ界、神智学ではアストラル界ともいう。
そういった意味では幽界的事象はこの世の延長線的事象であるから、神秘主義的意味合いで霊的という言葉を使うことはできない。
世間的な営みとそこから来る神経的な苛立ち、他人との齟齬、その結果の孤独……といったことの描写、分析に漱石は文学の中心を置いた。
そうしたことにかけては卓抜した技量を示した。また、幽界的事象の描写は絢爛豪華である。
そして、深読みは自由だが、大きな円から一歩も出ていないのが漱石の文学だとわたしは思う。深い思索には神秘主義的な能力が必要だからで、漱石の思索はどんなに広がっても平面的なのだ。
だから、わたしは漱石を読むと、充実した神秘主義的感受性の下に豊麗な作品群を生み出した泉鏡花をはじめ、東洋思想とフランス文学を真摯に勉強した坂口安吾、さらに大正から昭和期に活躍したパワフルな女性作家たちでバランスをとりたくなるのだ。
よく読書感想文の課題図書に選定される「こころ」は漱石の全作品中最も問題のある作品で、作為の跡が至るところに見える。
登場人物全員――先生、奥さん(恋愛の対象となった、かつてのお嬢さん)、友人K――が狂言廻し的な動き方をしている。
真宗の坊さんの子に生まれ、医者の家に養子にやられた「先生」の友人K。
Kが、中学の頃から宗教、哲学に傾倒し(一宗教、一哲学に拘泥していたのではない描き方である)、精進を行っていた――という設定にしては、Kは真面目で純真なだけの人間で、人間としての厚みを欠き、宗教、哲学に含蓄が深いとは感じさせない。
宗教、哲学という分野では、恋愛についても様々な考察が行われてきて、対処法が工夫されてきた。
死について、勿論生きることについても同様である。その割にはKは自死という、極めて単純な決定をあっさりと下している。
恋愛にも、死ぬということにも、生きることにも、宗教、哲学は無力だとあっさり判定を下したのは、実はKではなく、作者漱石である。
そして、Kに頸動脈を切らせ、血が襖に張られた唐紙に飛び散るような派手な死に方をさせて、漱石は事件的な死に方自体をこの作品で売り物にしている印象を受ける。
Kや奥さんの内面描写をひどくケチっているわりには、自殺前後の外面的、即物的描写には微に入り細を穿つ、熱の入れようだからである。
漱石ストーリーテラーだが、それが裏目に出ることがある。Kを、会話をしたがらない偏屈な人間に造形して、宗教、哲学の話を披露しなければ ならない状況を前もって回避しているように映る。
青春時代にはそのようなタイプは珍しくないから、それを器用に利用したのだ。
ストーリーテラーであることは読者サービスに優れているということで、作家として決して悪いことではないが(積極的にそうあるべきですらあるだろうが)、ここではK、あるいはKと談笑したりしていた奥さんに舞台を作ってあげて、もっと話させるべきであろうに、口封じをした。その分野が苦手だから。

まことに、無責任、狡猾だと映る。まさに、「先生」がそうであるように。「先生」は加害者意識と被害者意識を器用にすり替える愚を犯すのみならず、繭に篭もる蚕のように、見聞きしたくないことは存在しない世界を作り上げ、語り手のような賛美者までこしらえる。
わたしは中・高校生には「こころ」をすすめたくない。宗教という宗教、哲学という哲学が中身のない形骸的なもの、無意味で無駄なものだとの先入観を与えかねない。
「こころ」から受けた宗教、哲学のそんな否定的な印象に、マルクス主義の「宗教はアヘン」的イメージが重なれば、豊富な読書体験を積まなければならない時期にどんな弊害があることか。そこから、わたしは漱石の果たした役割によるデメリットを考えずにはいられない。
エッセー20 で書いたように、日本には次のような特殊事情が存在するからである。

わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

深い哲学性や真の宗教心が欠如しているという点で、漱石は左派好みであり(要するに洗脳しやすいわけである)、彼らの教育への積極的な導入によって、現代日本人は自らが好む好まざるに拘わらず、漱石の血筋を引くはめになったといってよい。
我々は皆が何だか、どことなく漱石に似ているはすである。自然にそうなったのではなく、そうならされた面があることを自覚しておく必要がある。

漱石には「江戸時代の名残としての朱子学などの影響もあるのだろうが」と前述したが、漱石が禅を少し囓っただけのいわゆる一般人にすぎないことを、Kの肉付きの乏しさが物語っている。

半面、Kには異様なまでの生々しさがあり、Kのような人物が実際に漱石の周辺にいたのではないかと想像させる。Kの肉付きの乏しさは、そのモデルとされた人物に対する漱石の無理解を示しているのではないだろうか 。

例えば、シュエデンボルグ。

つい読み過ごしてしまったが、シュエデンボルグ? どこかで聴いたような聴かないような……

「こころ」の中で、主人公である「先生」とKが話す場面で出てくる。人名だろうか? 

その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。

わたしは声に出していってみた。シュエデンボルグ。なーんだ、スウェーデンボルグではないか。

Kは、仏教関係の書物だけではなく、キリスト教の聖書も読めば、コーランも読み、スウェーデンボルグも読んでいたのだ。

大学時代のわたしもそうだったから、Kの読書傾向はよくわかる。

純粋に高貴な思想にあこがれたら、コーランを読むとすれば、自然の流れでイスラム教神秘主義の文献――研究書や文学書――に出合うことなるし、新約聖書を読み、深く分析しようとすれば、同様にキリスト教神秘主義関係に辿り着くものなのだ。Kも、そうだったのではないだろうか。

スウェーデンボルグスウェーデンの有名なキリスト教神秘主義者である。バルザックの著した「セラフィタ」という両性具有の天使が出てくる美しい小説は、スウェーデンボルグの影響を受けたといわれている。

f:id:madame-nn:20151011182409p:plain

Emanuel Swedenborg
From Wikimedia Commons, the free media repository

ウィキペディアでは、エマヌエル・スヴェーデンボリと出ている。

エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia

エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)はスウェーデン王国出身の科学者・神学者神秘主義思想家。スヱデンボルグとも。しかし多くはスウェーデンボルグと表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。*2

 「無学な私を驚かせました」とあるが、主人公は当時の超秀才だろうに。Kは原書を読んだのだろうか? 英訳で読んだのかもしれない。現代では学研の雑誌『ムー』のお陰で、劣等生だったわたしですらスウェーデンボルクを知っていたし、邦訳で出ていた著作は読んだ。

「こころ」のKには、藤村操がモデルとなっている部分があるのではないだろうか。
藤村は漱石の生徒だったのだ。藤村は英語の授業中、漱石に叱責され、その翌日、華厳の滝から身を投げたという。
漱石の叱責が藤村の死の原因だとは思えないが、漱石は衝撃を受けたようだ。
吾輩は猫である」「草枕」には直截な表現が見られるが、直截な表現をとらずに、藤村の死がモチーフとなって「こころ」のKが造形化された可能性はあるだろう。

f:id:madame-nn:20151011192831j:plain

藤村操
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ウィキペディアより、次に引用する。

藤村操 - Wikipedia

藤村 操(ふじむら みさお1886年(明治19年)7月 - 1903年(明治36年)5月22日)は北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。(……)
1903年(明治36年)5月22日、日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。華厳滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。(……)
彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石やその同級生、在学中の岩波茂雄の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、うつ病となった一因とも言われる。(……)
藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。

f:id:madame-nn:20151011221934p:plain

巌頭之感

  悠々たる哉天壤、
  遼々たる哉古今、
  五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
  ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
  萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
  我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
  既に巌頭に立つに及んで、
  胸中何等の不安あるなし。
  始めて知る、
  大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。*3

 藤村操の父は屯田銀行頭取(1899年の死は自殺ともいわれる)、弟は建築家で三菱地所社長、妹の夫安倍能成漱石門下の哲学者で学習院院長や文部大臣を歴任、叔父は歴史学者という錚々たる顔ぶれだ。

友人たちがまた凄い。

岩波書店創業者の岩波茂雄、英文学者・能楽研究者の野上豊一郎(妻は野上弥生子)。

友人たちの追悼文はウィキペディアに「日本ペンクラブ:電子文藝館 藤村操」へのリンク*4があり、閲覧できる。

そして、英語講師としての漱石である。

藤村操の死を報じた新聞記事のタイトルは「巌頭の感の一文華厳瀧の轟きより強し」で、そのタイトルからも記事の内容からも、当時の興奮した、ほとんど絶賛しているかのようなムードが伝わってくる。そのムードはわたしが学校に通っていたころも残っていた。

ウィキペディアの明治36年5月27日報知新聞『新聞集成明治編年史. 第十二卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)へのリンク*5から、藤村操の死を報じた新聞記事を閲覧できる。 

いつ、どの先生から教わったのか覚えていないが(高校時代に複数の先生から教わった気もする)、藤村操について聴かされて、語呂がいいので、遺書を諳んじたりしたものだ。
ノイローゼだったに違いないとは誰しも思うところだろうが、わたしも当時、膀胱神経症で苦しんでいたので、他人事ではない気がした。
前掲の明治36年5月27日付・報知新聞に「京北中学校を出で、目下高等学校文科第一年に学び、哲学宗教を専攻しつつありたれば」とある。
わたしが中・高校生だったころ、誰からともなく、哲学書を読むと発狂するとか自殺するとか脅かされたが、そうした哲学を忌避する風潮には藤村操の自殺が影響していたのかもしれない。
明治時代の出来事がいつまでも尾を引いたのは、国民作家となった漱石はじめエリートたちが藤村操をいつまでも忘れなかったからだろう。
それは藤村操の陥った不可知論に、日本のエリートたちが陥っていたためではないだろうか。今なお、そうかもしれない。
遺書に出てくるシェークスピアの「ハムレット」以外に藤村が何を読んだのかは知らないが、旧制高校生が好んだのはデカンショ――デカルト、カント、ショーペンハウエル――だった。 
いわゆる近代哲学で、わたしの場合はデカルトには少し興奮したが、古代哲学に比べると、彼らの哲学は決めた土俵の上でのパフォーマンスと映ってしまった。乳牛から溢れ出る新鮮なミルクと干からびたチーズのかけらの違いといってもいいくらいに思われた。
その中でもとりわけ小さな印象のショーペンハウエルの著作は、わたしが若かったころにはよく読まれていたように思う。わたしも一応読んだが、つまらなかったことしか覚えていない。
いきなりそんなものを読むくらいなら、プラトンの1冊でも読むほうがずっといいと思う。比較的短い、充実した作品「ソクラテスの弁明」「饗宴」「パイドロス」「パイドン」などでは、思想の美しさに触れることができるだけでなく、言葉の正確な使い方を学ぶことができるので、高校生から大学生には適した作品ではないだろうか。
哲学はどんどん細分化され、下請け企業的になっていった感じがある(今では下請け企業だけが存在している不思議な状況)。
藤村の自殺は、哲学的自殺の典型例とまでいわれているらしいが、そもそも遺書に戯曲から引用すること自体、哲学的というより、演劇的だ。含蓄のあるシェークスピアの言葉であるにせよ(藤村の遺書にある英語解釈は間違っているらしい)。いずれにせよ、カッコつけすぎではあるまいか。
「不可解」と書いて投身した藤村を時代のシンボルに祀りたくなるほど、知識人たちは疲弊していたのだろう。考えられる原因として、日本の精神的土壌が破壊され、なすすべもないほど荒んでいたからではないだろうか?

f:id:madame-nn:20151011193103j:plain

Pixabay - Free Images

漱石はイギリスに留学して英文学に違和感を覚え、神経衰弱に陥った。

漱石がイギリスで神経が参っても、母なる日本、誇り高き存在であるべき日本、伝統と永続性を感じさせる安らぎの国であるはずの日本にはそれを受けとめる力がなかった。否、日本がそんな状態だったからこそ、漱石は健やかにイギリスで過ごせなかったともいえる。
Kに藤村の自殺が投影されているにせよ、いないにせよ、Kの境遇は藤村とははっきりと異なるものだ。漱石は、別の人物の境遇を参考にしたのではないだろうか。全くの空想の産物にしては、Kの境遇は、漱石にもうまく説明できない、不透明感のあるものだからだ。
そこには神仏分離令の影響があるのではないだろうか。
江戸時代、キリシタンに悩まされた幕府は、寺請制度を設けた。寺院は檀家に対して自己の檀家であることを証明するために寺請証文を発行した。民衆はいずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となることを義務付けられたのだった。

寺請制度 - Wikipedia

僧侶を通じた民衆管理が法制化され事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。(……)

その目的において、邪宗門とされたキリスト教不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。*6

 1868年、明治政府により出された神仏分離令により、それまで行われてきた神仏習合が禁止されたのだった。これは、廃仏毀釈運動と呼ばれた。わたしが初の歴史小説で描こうとしている祐徳院は神仏分離により、祐徳稲荷神社となった。

廃仏毀釈 - Wikipedia

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。

明治期の神仏分離廃仏毀釈
(……)
伊勢国三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。その為、全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。
明治政府神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。
美濃国岐阜県)の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。
一方、尾張国(愛知県)では津島神社の神宮寺であった宝寿院が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している。
廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。*7

どんなに凄まじい文化破壊であったかがわかる。ここまでする必要があったのだろうかと思えるほどだ。

それほどのものであったのに、それについて書き残されたものは少ない。
仏師だった高村光雲高村光太郎の父)は、『幕末維新懐古談』の中で、仏像が破壊される様を生々しく描き出している。青空文庫に入っているので、ネットで読むことができる。

高村光雲 幕末維新懐古談 神仏混淆廃止改革されたはなし

 明治政府神仏分離政策によって、日本の精神的土壌、文化的環境はひどく損なわれ、変化していたのであった。

 

マダムNの覚書、2014年10月21日 (火) 19:32

 

※「神格化された漱石」の続きのエッセーの収録には、なかなかこの作業のための時間がとれないため、時間がかかりそうです。拙ブログ「マダムNの覚書」の次のカテゴリーに校正を待っている続きのエッセーがあります。

マダムNの覚書: Notes:夏目漱石