13 十五夜に寄せて
出典:Pixaba
毎日まだまだ暑くて、気分は夏なので、うっかりしてしまうところだった。今宵は十五夜である。
しっかり月を見なければ……空は白っぽい。果たして綺麗に見えるだろうか。
陰暦8月15日、中秋の月――1年中でこの夜の月が一番美しいとされ、俳句では、十五夜、名月、明月、望月、満月、今日の月、月今宵、芋名月ともいわれる。
月といえば、連想されるのは、物語のかぐや姫。すなわち「竹取物語」。
この児のかたちのきよらなること世になく、屋の内は暗き所なく光満ちたり。翁、心悪しく苦しき時も、この子を見れば苦しきこともやみぬ。腹立たしきこともなぐさみけり。*1
わたしなどには、この場面はオーラを表現したものだとしか思えないが、かぐや姫の高貴さがじかに伝わってくるような描写だと思う。
かぐや姫が月に帰ろうとする前に、帝に宛ててしたためた歌がまたいい。
今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあはれと思ひいでける。*2
そして、天の羽衣を着せられたかぐや姫は、この世の思い煩いいっさいを忘れてしまう。その場面は、次のように描写されている。
ふと天の羽衣うち着せたてまつれば、翁を、いとほし、かなしと思しつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して、のぼりぬ。*3
わたしは、昔、母が亡くなったときに、静謐となったその面を見て、思わずこの場面を思い出した。
死に顔には、深々とした忘却を想わせる静けさと威厳がある。
神秘主義の観点からすれば、死んだばかりの人は必ずしも思い煩いいっさいが失せるというわけではないようだし、生まれたばかりの赤ん坊の顔が刻々と変化するように、死に顔もまた刻々と変化するものではあるけれど……。
わたしには、かぐや姫は、人間なら誰にも備わっているはずの真心をシンボライズしたもののように想えるのだ。神智学用語でいえば、ブッディ・マナス(高級自我)である。
月に対するわたしの思いには、結構深いものがある。幼い頃、電話交換手をしていた母が当直でいない夜は、窓から差し込んでくる月の光がお母さん代わりだったからだ。
だから、わたしの作品には、どこかしらに月が顔を出してしまうほどだ。その最たるものといえるエッセーは「卑弥呼をめぐる私的考察」である。*4
それにしても、『かぐや姫』はどんな人物によって、そして、どんな動機で書かれたのだろうか。謎であるところがまたいい。
マダムNの覚書、2007年9月25日 (火) 18:06