マダムNの神秘主義的エッセー

神秘主義的なエッセーをセレクトしました。

4 イエスの弟子マリアについて、ちょっとだけ

f:id:madame-nn:20181109113320j:plain

ジオット・ディ・ボンドーネ、マルセイユへの旅「マグダラのマリア伝」(マッダレーナ礼拝堂)
出典:Wikimedia Commons

ダン・バースタイン編「ダ・ヴィンチ・コードの真実」(沖田樹里亜訳、竹書房)を読もうと思っているのだが、イエスの弟子にマリアという人がいて近しくしていたであろうことは、福音書を読めばわかることだ。

そのマリアが、イエスの恋人であったり妻であったりしたかどうかはわからないが、仮にそうであったとしても、イエスは彼女をバランスのとれた考えと情緒で愛していたに違いない。福音書に描かれた乱れのないイエスからは、そう読み取れる。

だから、弟子のマリアだけを拡大鏡にかけるのは福音書全体の構成、味わいからもバランスを欠いたことで、いささか馬鹿馬鹿しいという気がするが、パウロを頂点としたひじょうに男根主義的なキリスト教の歴史を鳥瞰してみると、弟子のマリアを特別視したい気持ちもよくわかる。

わたしは信者にはならなかった(知れば知るほど違和感を覚えて、なれなかった)が、福岡や実家のある町のカトリック教会は一頃、よく訪ねていた。神父さんたちとも個人的に話したり、ビリヤードをしたりした。カトリックの祈りの家であると同時に受難修道会でもある「黙想の家」で、怪奇現象を目撃したこともあった。怪奇現象というのは、まずいだろうか。だが、神秘現象というには、おどろおどろしかった。

その頃、プロテスタント系の教会も複数、訪ねた。

そういえば、神智学を教えていただいた先生のお父様は、神智学に魅了される以前はプロテスタント系の牧師補でいらしたそうだ。キリスト教には、人――ことに若者――を惹きつける力があると思う。イエスが十字架にかけられたという歴史的事実一つとっても、充分にドラマチックだ。

そして、キリスト教の権威が強大であるにも拘らず、そこで形成された体系が人間的誤謬と幻想性に充ち、吟味に値する内容そのものがまことに乏しく、貧弱であるのは、不思議なくらいだ。

その首をかしげたくなる土壌に、あまたの偉大な才能が豪華絢爛に咲き乱れた。それはキリスト教の教義がすばらしいからではなく、福音書に記されたイエスの言葉そのものがすばらしいからだとわたしは考えている。

エスを本当に知りたいと思えば(そんなことが可能かどうかはわからないが)、第一にキリスト教がつくりあげてきたイエス像からイエスを自由にしてやることが必要だろう。これは簡単なことではないが、イエスが生きた時代をいくらかでも詳細に知りたいと思い、調べ出したことがきっかけで、わたしはいつのまにか神智学に辿り着いていた。

映画の中でニュートンが象徴的に描かれていたが、その頃に取り寄せた『バラ十字会』の会報には、ニュートンがバラ十字会員だったと紹介されている。尤も、それには「歴史と伝説によると」と前置きがあった。外に名が挙げられていたのは、ライプニッツ、フランクリン、ドビッシィ、ベーコン、デカルト

バラ十字会員として明記されていたのは、リットン卿、枢機顧問官フォン・エッカルツハウゼン、パラケルスス、エルバート・ハーバート兄、ダンテ、バルザックサン・マルタン……。

ちなみにエジソンは神智学協会の初期会員だ。近代までの西洋で、自由に科学し哲学し文学しようと思えば、非科学的で抑圧的なキリスト教から、形を残して内面的にだけでも逃れて1人孤独に生きるか、仲間を探そうと思えば、フリーメーソンとかバラ十字といった神秘主義的組織に入るしかなかっただろうから、ニュートンがバラ十字会員だったとしても、不思議なことは何もない。

 

マダムNの覚書、2006年7月16日 (日) 14:08